八月の彼方へ

歩道に蝉の亡骸が腹をみせて転がっていた。
拾い上げて近くの公園の草むらへ移した直後に通り雨が降った。
日が落ちるのが早くなっていることに気づいて外へ出ると、
遠慮がちな秋の風に吹かれた。

二〇〇五年八月、この国はいつも以上に慌ただしかった。
戦後六十年ということもあったのだろう。
八月になった途端にテレビでは戦争特集を組み、
戦争の悲惨さを再現するフィルムを流し、
戦争を風化させないためにと年老いた戦争体験者を集めて戦争を語らせた。
恒例の原爆記念平和式典が行われ、黙祷を捧げ、平和の誓いが宣言され、
各方面でも多彩なセレモニーが開催された。
シナリオどおりの衆議院解散があった。
盆休みの帰省ラッシュ。全国高校野球。
応援していた郷土の高校が優勝したのもつかのま、不祥事が発覚して後味の悪い大会となった。
これに関しては、人間の業の深さを多角的に感じた。
そんなこととは知らずにいた優勝までの選手たちの戦いぶりは見事だった。
だから、選手たちは何も恥じることはないのだよ。
幻想としての高校野球のいまのあり方に問題があるのかもしれない。
そんな八月だった。

この国の八月のことを考えていた。
あの戦争はなんだったのか。どういう戦争だったのかと。
高校の日本史の教科書にも太平洋戦争ついては戦後までの経緯しか書いていない。
かつて志願兵だった父もあまり語りたがらない戦争だった。
おそらく父もそして帰還できずに戦死した兵士たちも、
どんな戦争であるのか知らずに出兵したのだろう。
無為無策のうちに陸軍と海軍の意地の張り合いによる事実をねじ曲げた「大本営発表」が続いた。
ああ、終局、人間の感情の動きがどれだけの影響を及ぼしてきたのだろうか。
敗戦。すべてを隠ぺいして精神論だけで負け戦を演じた結果の代償はあまりにも大きかった。
310万人もの日本人が命を落としたという事実。
日本はあの戦争を契機に急速に民主主義、平和教育への道を歩んだ。
自分が今日あるのも日本の発展と共にあったようなものである。
しかし、ふと思った。
「あの戦争は陸軍の暴走」「戦争反対」「平和主義」の決まり文句だけが一人歩きしていたのだなと。
そして、語られてきた多くは戦争の断片であるのだと。
三十年以上も前に「戦争を知らない子供たち」という青春ソングがヒットした。
若者が集まって歌っていた。わたしはこの歌を不思議な思いで聴いていた。
「知らない」ということがそんなにハッピーなことでもあるまいに。
戦時中に生きていた大人たちはどんな思いでこの歌を聞いていたのだろうか。
「いまは平和でいいね。子どもたちは戦争を知らなくて幸せだね」
果たして、そんなことを思ったのだろうか。

父が逝ってから早三年がたった。
戦争にかぎらずいろいろな話を聞いておけばよかったと、
忸怩たる思いにかられながら月日だけが流れていった。
しかし、父の不在によって、あの戦争について知りたいと思うようになったのは事実だ。
それを知らなければ、元気だったころの父の像が不確かなものに見えてしょうがなかった。
あの戦争はいったいなんだったのだろうかと。日本の軍隊とはどういうものであったのかと。
この年齢になるまで何も知らずにいた自分の不勉強を恥じながら、一冊の本を読んだ。
「そこに書かれていることも著者の主観であって事実ではないよ」
と言われてしまっては身もふたもないのだが、
あの戦争を知りたいと思っていた自分にとって貴重な一冊となった。
盆休みに帰省して母に戦時中のことを聞いた。母が知るかぎりの父の戦中戦後のことを聞いた。
二人でしみじみ語った八月十五日の昼下がりだった。

八月のある日、心にしまっていた弱音がついに飛び出した。
それを101回目の弱音と名づけよう。ひと呼吸のあとに「大丈夫」のひと言が耳に届いた。
そういうことだったのか。「大丈夫」は力強い言葉だった。
すべては自分につながり、いくつかの疑問がするすると解けた。
大きな不安が飛び散った。笑った。大丈夫。大丈夫。

ふみの日には久しぶりに万年筆で礼状を書いた。
美術展で買ったポストカードを選び、きれいな記念切手を貼った。
投函したとき久しぶりに「悪くないな」と思った。
便利なはずの電子メールがとても厄介で不便なものであるような気がしていたからだ。

ああ、二十世紀の悲しみは消えないままではあるが、
八月は清濁合わせのんでくれる月なのだろうか。来年も、再来年も。
この月にはそのようなことを考えていた。
九月になれば、都心から遠く離れた場所へ移動したいものである。

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