書店の新刊コーナーで目に飛び込んできた本のタイトルに心を奪われた。それが
大沢在昌の『Kの日々』だった。最初のページにこうあった。
〈女の名前はケイというらしい。雑貨屋の店名も“K's Favorite Things”とい
う。 (中略)アルファベットの「ケイ」が、本当に「ケイ」という名なのか、
「恵」なのか、「恵子」「啓子」あるいは「久美」や「加代」の略か、(中略)
どちらにしても「ケイ」は「ケイ」で、木(もく)は「ケイ」というその女の名
前も気に入った。クールな感じがするからだ。〉
パラパラめくっていくと、どうやらケイという登場人物はキーパーソンであるこ
とがわかった。もちろん、自分も同じように親しい友人からは「ケイ」と呼ばれ
ていることから親近感を抱いた。また、シャレた名前があふれているいまどきに、
謎の女にケイという名前をつけるところも、なんとなく野暮だけれどもハードボ
イルドっぽさを感じた。という極めてシンプルな動機で買い求めた。
さらに、著者の大沢在昌氏とは10年ほど前に、ある出版記念パーティで会ってい
た。同業の先輩に紹介され、名刺交換をして会話を交わしたことを懐かしく思い
出した。気さくなタフガイという印象だった。そのとき頂戴した名刺はいまでも
大切に保管している。彼の著書は『新宿鮫』を1冊読んだきりではあるが。
『Kの日々』は銀座が舞台である。刑事くずれの探偵がヤクザの組長の誘拐事件
の真相、消えた身代金の行方を追っていく話だ。実は謎めいた「ケイ」の本名は
「恵」でも「恵子」でもなく、意外にも「京(ケイ)」であることが判明。少し
残念。物語はけっこう面白くて、一気に読んだ。味わった読後感は水の泡のよう
なもので、やがて時がたてばどんな話だったのかも忘れてしまうかもしれない。
しかし、今回は黒孩子(ヘイハイズ)のことが胸にぐさりときたことを記してお
こう。そして、銀座はハードボイルドの似合う街であるということも。
実はハードボイルドといっても、自分のなかではその定義は明確ではないのだが、
これまで本を読んだり、映画を観たりしたことを自分なりに総合的にイメージし
てみることは楽しい。そこで、キーワードを並べると、探偵、犯罪、暗黒街、謎
の女、そのほかいろいろ。さらに、肝心のヒーローの特徴を思い描いてみた。国
内の小説も海外の小説もハードボイルドのヒーローは案外、類型的かもしれない
が、イメージはどこまでも膨らむ。
以下、個人的なハードボイルドのヒーロー像である。
いずれかの権力によって挫折せざるを得なかったアウトローであり、妻、あるい
は恋人と別れたという過去をもつ。厭世的ではあるが、金のために危ない橋も渡
る。決して群れず、謎の一匹狼。そして、言い訳をせず、愚痴をいわず。孤独な
影を背負い、ちょいと様子がいいので女にはもてるが、元来スケベではないので、
自分から女の尻を追うことはない。極めて覚めている。しかし、案外、年寄りと
子どもは好きである。守るべきものだと思ってはいないが、そういう行動にでる
ことたびたびだ。
彼は滅多に笑わない。たとえ笑ってもそれは不自然だった。さらに、惚れてしま
った女は謎めいていて、自分に似ていることを察知する。しかし、スケベ心は生
まれない。ただ、見守っているだけだ。そういう意味において非常にストイック
である。だがしかし、一度惚れたその女がたとえわけありであっても、男の影が
ちらちらしていても、危機にさらされているとわかれば、命を投げ出して救おう
とする。
ざっと、そんなもんかね、自分が描くハードボイルドのヒーロー像は。お、誰かに
似ていると思った。幕末でいえば、坂本竜馬、土方歳三か。いや、少しちがうだ
ろう。おそらく、我が人生において、そんな男は過去にも未来にも存在しないら
しい。だがしかし、出会っていたなら、自分は恋人ではなく、子分になりたいと
願い出るであろう。
せめて、自分は桐野夏生が描いた村野ミロのような女探探になる〈夢〉を見るの
が関の山だろう。ま、今夜あたり夢をみるとしよう。女ハードボイルド。
『Kの日々』を読み終わってから、本にはさまれてあった『大極宮通信』に気づい
た。そこには大沢さんのエッセイ「本を買う人」が載っていた。読んで驚いた。
小説家にとって、本屋さんで自分の本を買っている人を見るのは「夢」なんだそ
うだが、大沢さんの場合、長いことその「夢」はかなわなかった。ところが10年
ほど前に神保町の大きな本屋さんで、大沢さんの本を手にしてレジの行列に並ん
でいる若い人を見たという。そのとき大沢さんは駆け寄って握手したのか? い
や、買うつもりだった本を棚に戻してそそくさとその場を逃げ出した。恥ずかし
かったのだそうだ。以来、大沢さんは一度もそのような場には出会っていないと
いう。
そのエッセイを読んで思い出したのは、自分が書いている連載小説「鳩が飛ぶ日」
の芝山祐輔と黒川麻美の出会いも神保町の大きな書店だったということ。似てい
ると思った。大沢さんはその場から逃げてしまったけれど、ほかの小説家はどう
なのだろうか。機会があったら聞いてみたいものだ。芝山の場合は、レジカウン
ターにいる麻美に歩み寄ってしまった。そして、物語はまだ終わらない。
奇妙なエピソードが重なる『Kの日々』である。蛇足になるが、個人的にはうれ
しくなるようないいタイトルだと思う。
見事に一本、決められてしまったのである。大沢さんに。