プロローグ
乳白色の半月が濃紺の空に傾き、輪郭を取り囲むようにして淡い光がゆらゆらと揺
れている。太陽に置き去りにされたまま、ようやく半分だけの姿を現わし、力尽きる
まで佇んでいようとする。東へ、西へ。雲の流れに身をまかせるよりも、迷いながら
あるべきよう姿を晒し、ため息ひとつをつく。やがて、遠い東雲から迎えに来てくれ
る太陽に思いを馳せながら、満月のおおらかさとも、三日月の潔さとも無縁の半月は
夜通し明け方まで、やはりそこにそうしてひっそり時を待つのである。
男は開け放った窓から夜空を眺め、早春の香りをかぐ。飛んでいく時間の多さにむ
せびながら、残された時間の鋭い刃先に突かれて我に帰る。男はあわてて窓を閉め、
部屋の定位置に戻り、やがて十本の指を機械的に動かしていく。頭で考えると同時に
指先が言葉を生み出し、パソコンの画面に写しだされるそれらを目で追いながら指だ
けが勝手に動いた。男は呼吸困難に陥るまで指を休めることなくキーボードを打ち続
ける。
「時間が残されていない。これが最後の挑戦だ」
その思いを噛みしめながら、男は自分自身を駆り立てる。壁の時計は十時十五分を
指していた。きりのいいところで冷めたコーヒーをひと口すすり、画面に集中する。
一日のノルマというものはなかった。書けるところまで書く。腕と肩と背中、そして
腰に鈍い痛みを感じたが、それでも指の動きを止めることはしなかった。肉体の各部
の痛みはやがて全体にゆきわたっても、張りつめた神経だけは指先に集中し、男の心
のありようがそのまま画面に吸着する。男を飲み込もうとするのは未来への漠とした
不安ではない。現在、この時間に飲み込まれないようにと必死である。運動を止めて
しまうことをいちばん恐れていた。
疲労も睡魔も襲ってはこなかったし、男と関わった人間の顔も言葉も浮かんではこ
なかった。いまあるのは、記憶の喪失感よりもむしろ解放感だった。男が見聞きした
事実は粉砕され、微粒子となって空気と交じり合う。そして新たに作り出される空気
が男を包み込むのである。しだいに目がかすみ、手首にしびれがくる。呼吸困難に陥
りそうになると、水面に顔を出して大きく深呼吸をしてみる。
ふと気がつくと、視界の淵に一匹の小さな褐色の蜘蛛が静止している。男の視線を
感じたのか、蜘蛛は蛙のように跳ねながら男を一瞥し、やがて男の視界から消えた。
男はキーボードを打ち続ける。不規則な音を生み出しながら、しかし、力強い音は
部屋中に響きわたるのだった。