新しい年を迎えて二週間が過ぎたころ、東京に初雪が降った。
その夜、芝山はパソコンに向かっていた。「せつない恋の話」を書いてほしいという
女性誌の要望である。ショートストーリーだったのでメールで送ってもよかったのだが、
芝山の写真撮影、近況とせつない恋についての思い出があればインタビューしたいとい
う欲張りな企画である。最初、打ち合わせで会った初対面の女性編集者はカメラマンと
いっしょに自宅を訪問すると言ってきたが、芝山はそれを断った。結婚と離婚のときな
どアポイントなしで自宅まで押しかけられたという経験もあり、興味本位で他人でプラ
イバシーを覗かれるのは愉快なことではない。
女性編集者も初対面であるにもかかわらず、仕事熱心なのか、単なるミーハーなのか、
芝山のプライバシーについてふれてきた。小説家の中では容姿や経歴、さらにスピード
結婚と離婚など興味をそそる条件がそろいすぎていたのは、本人も十分に承知していた
ことだが、やはり自宅に来られるのは迷惑だった。芝山のほうから出向くことにしたの
である。
「せつない恋の話」を書き終えたときにはすっかり夜が明けていた。芝山はなにげなく
ベランダのカーテンを引いた瞬間、ガラスの向こう側の景色に思わず声を上げた。前夜
からの雪は降り続いていたのである。マンションの七階から眺める雪一色の世界は完璧
だった。家々の屋根も道路も雪で覆われ、電線やベランダも手すりの上にも雪が十セン
チほど降り積もっていた。何もかも真っ白だった。芝山は柔らかな白の迫力に圧倒され
たのである。
冷蔵庫から取り出してきた缶ビールを飲みながら、静かに舞い落ちてくる大粒の雪を
目で追った。
東京で生まれ育った芝山は子どものころから雪が空からの貴重な贈り物に思えてなら
なかった。雪の世界をそのままぼんやりと眺めていたかったが、雪は終日溶けそうにな
かったので、昼までの数時間を眠ることにしてベッドに潜り込んだ。
午後一時、芝山は目覚まし時計の鳴る音で目で覚ますと、すぐに 窓の外を見た。すで
に雪は降りやんでいたが、完璧すぎるほど白い世界だった。熱いシャワーを浴びたあと、
トーストとハムエッグ、それに熱い紅茶という簡単な食事をとった。テレビをつけてみ
ると、NHKでは大雪のために関東地方の道路状況は極めて悪く、交通機関が乱れてい
ることを伝えていた。車をあきらめて地下鉄を利用することにした。
マンションの外に出ると、少し深めの靴も半分以上が雪に覆われてしまった。
「初雪にしては遠慮を知らないよな。たいしたもんだ」
ひとりごちて、厚手のダッフルコート姿の芝山は駅まで歩いて七分の雪道をゆっくり
と歩いた。
東京に降る雪は丸一日あれば消えてしまい、翌日にはいつもの表情に戻るが、この日
の雪は簡単には消えそうもないものだった。珍しい雪の日に電車に乗って外出できるの
は、一つの幸運かもしれない。芝山は明日も雪が降ってくれないかなと思った。
空気は冷たく澄み、吐く息も白く流れる。歩道には突然の雪に浮かれとまどう人たち
の新鮮なざわめきがあり、何かしら心がはずんだ。しかし、せっかくの雪景色なのに地
下鉄の車窓からでは眺められないのが残念だと思いながら、芝山は地下に潜った。
出版社のあるビルのコーヒールームには約束の時間よりも数分を遅れて到着した。す
でに担当編集者とカメラマンが向きあってコーヒーを飲んでいるところだった。
「こんな大雪の日にわざわざ来ていただいて申し訳ありませんでした」と頭を下げる女
性編集者に芝山は原稿とプロッピーを渡した。その場でざっと目を通した編集者は「せ
つない話ですね。胸が痛くなります」と悲しそうな表情を見せながらお仕着せの感想を
述べた。そんな話でよければいくらでも賭けると思ったが、それは口に出さずに、ただ
照れ笑いをしてみせた。芝山の笑顔というのは、特に女たちには魅力的に映った。その
編集者が芝山に向ける視線にも熱っぽいものがある。
「せつない話の次はやはりハッピーエンドの話も読んでみたいです。ぜひ、またよろし
くお願いします」
にっこり笑う編集者。芝山が彼女の退屈なインタヴューに答える一方で、カメラマン
は注文をつけながら盛んにシャッターを押した。
コーヒールームを出た芝山はその足で書店に向かった。平日、しかも雪の日とあり、
店内は比較的すいていた。出入り口前の新刊書コーナーには芝山の最新作も平積みにさ
れていた。思わず、それを手に取ってペラペラとめくってみたが、他人の書いたものの
ようで自分の本だという実感はわかなかった。新刊を出すたびにベストテン入りする人
気作家のミステリーなど読んでみたい本を数冊選んだあと、日本文学の棚のほうへと移
動した。
次に日本文学の棚のほうへと歩いていった。数歩先にベージュの半コートに赤いマフ
ラーをした若い女が、真剣な表情で立ち読みしているのが目に入った。女は肩までの髪
を後ろに束ね、すっきりとした輪郭の美しい横顔の持ち主である。「彼女が読んでいる
のは誰の本なのだろうか」と芝山は気になり、一歩二歩と女に近づいた。
背の高い女だった。芝山は開かれたページを横目でちらりと見るが、誰の本であるか
は確認できなかった。好奇心にかられた芝山はそのまま女の横に立ち、棚から適当な本
を抜いてページをめくった。女が本を棚に戻すか、あるいはそれを持ってレジカウンタ
ーに向かうのを見届けるまで、芝山はそこを動けなくなってしまった。その時点で初め
て自分の奇妙な行動に戸惑った。
五分ほどすると女が本を閉じて棚に挿したが、そこには芝山の著作がまとめられてあ
る。女が読んでいたのは短編集だった。芝山は意外な感じがした。まさか自分の本を読
んでいるとは思ってもみなかったのである。特に愛読者というのではないらしい。愛読
者ならすでにその本は読んでしまっているはずだと芝山は思った。さらに女は芝山の長
編を引きだし、今度はその奥付を見るだけで棚に戻してカウンターのほうへと歩き出し
た。芝山は自分は一体何をしようとしているのだろうか、と半ばあきれながらも女に吸
い寄せられるようにして後ろ姿を追った。
女はカウンターの係員に本の在庫を尋ねた。そのタイトルは芝山のデビュー作だった。
「それは文庫になっていますから、在庫はあると思います。少し、お待ち下さい」
「あの、文庫でないほうがいいのですが」
「あいにく単行本はございませんので取り寄せになりますよ」
「どのくらいかかりますか?」
「十日ほどお待ちいただけたらこちらからご連絡いたしますが」
係員の言葉に女は考えるような表情になったところへ、芝山が歩み寄って即座に声を
かけた。
「その本ならぼくが余分に持っています。もし急ぐのでしたら、明日、いや、今日のう
ちにあなたに渡すことができます」
振り向いた女が驚きの表情で芝山を見た。やはり、美しい女だった。係員は呆気にと
られながら、すぐに芝山本人であることがわかったのか「著者の芝山祐輔さんですよ」
と笑いながら女に告げた。女が何が何だかわからなといったふうに芝山を見つめた。
芝山は自分自身が選んだ数冊の本の会計を済ませながら、
「ぼくが自宅にを取りに行っている間、どこかで待っていてくれたら届けますよ」
果たしてこれは親切なのか。それともナンパの類いなのか。芝山が自分の思い掛けな
い行動に驚くと同時に、女も戸惑った。
「そんな、悪いですよ。きょうはこんな天気ですし、明日また別の書店を探してみます
から」
「ほかの書店にも5年前の単行本は置いていないと思いますよ。まあ、とにかくここを
出ましょう」
芝山の言葉に女はうなずき二人は店の外に出た。暮れていく街に雪の明るさが溶け込
み、空気はいつもよりも澄んでいた。
「もし、あなたのほうにこれから予定があるのなら、本は宅急便で送りますよ」
「私、予定はないんです。でも、初対面の芝山さんにそこまでしていただくのは悪いで
す」
「ぼくの用事は済みました。あとは帰るだけですから平気です。本を読んでもらえるの
だから喜んで書店の代理人になりますよ」
「ほんとうにいいんですか。ありがとうございます。それではわたしが芝山さんのお宅
の近くまで行きます」
「ぼくは駒沢大学のほうなんですけど、あなたはどこに住んでいるのですか?」
「西葛西です」
「それじゃあ、反対方向だ。帰りが遅くなってしまいますね」
「いいえ、平気です。だいたい1時間半ぐらいで帰れると思います」
「この雪道ではタクシーより地下鉄のほうが早いだろうな。いいですか?」
女はうなずき、二人は駅のほうへと歩き出した。
これが雪の日の芝山祐輔と黒川麻美との運命的な出会いであった。(つづく)