芝山は少しばかり緊張した面持ちで吊り革につかまっていた。
正面の窓ガラスに視線を向ければ、まともに女の顔が目に飛び込んでくるのでどう
にも落ち着かなかった。しかし、タイミングを見計らってさりげなく女の顔を見る
ことはできた。芝山の肩をこえたところにその顔はどこか寂しげに映っていたが、
十分に若く、おそらく二十三、四歳だろうと推察した。
「雪、好きですか?」
女が車窓に映っている芝山の顔を見ながら聞いた。唐突な質問に芝山は一瞬どき
っとしたが、すぐに「好きですよ」と答えた。
「わたしも好きです。芝山さんは東京のお生まれですか?」
「ずっと東京です。あなたは違うの?」
「わたしは小学校の三年まで岩手県の釜石にいました。東京にたまに雪が降ると、
釜石にいたころが懐かしくなります。東京は滅多に雪が降らないからつまらないで
す」
「釜石か。製鉄所のあるところですね。小学校の社会科で習った記憶があります」
女は小さく笑って芝山の横顔をちらりと見た。
「わたしが生まれる前は景気がよかったみたいですけれど、いまはほとんど目立た
ない街です」
「鉄冷えがずうっと続いているよなあ。でも、新日鉄ラグビー部というのは有名だ
ったよね」
芝山にとって釜石は一度も訪れたことのない見知らぬ街だった。もちろん岩手県
といえば、宮沢賢治を連想することはできても、海岸線に位置する釜石は製鉄所の
ラグビー部以外ではほとんどで縁もゆかりもない地図上の街で、硬い地名だけが芝
山の耳に残った。
駅の改札を抜けて地上に出ると、すでに外は暗かった。
「できるだけ早く戻ってきますからね」
芝山は駅前の喫茶店に女を待たせ、マンションへと急いだ。雪道をほとんど走る
ように、転びそうになりながら歩いた。
マンションの書棚には芝山の著作が刊行順に並んでいる。単行本は全部で13冊。
それらをまとめて紙袋に入れようとしたが、全部入りきらず、しかもかなりの重さ
になるので、とりあえず5冊だけを紙袋に入れてマンションを出た。
このときの芝山は夢中であった。
彼の書く小説に熱心な愛読者がいることは百も承知で、意識的にそうした愛読者
に向けて次から次へと作品を提供していたようなところがあるのは、芝山自身がデ
ビュー当時から自覚していたことだった。そしてさらに、新しい作品を生むと同時
に新しい読み手が誕生するということも、出版社との暗黙の課題であった。まさに
いま、その新しい読み手が芝山の前に出現したのである。しかし、読者というもの
は作家の預かり知らないところで勝手に誕生してしかるべきだった。なぜに作家自
らが未知の読者に対して、しかも芝山の小説を一冊も読んだことがないという人間
に対してここまで熱心になろうとするのか、芝山自身自問自答する余裕はなかった。
とにかく、うれしかった。それだけである。たまたま自分の目に止まった美しい
女がこともあろう自分の著作を手に取った瞬間を眺め、しかもデビュー作から順番
に読んでみたいと申し出たのである。あきらかに彼の愛読者でないことは歴然とし
ていたのだが、むしろそれがうれしかった。
たった一人の読者がふえただけといわれれば、確かにそうである。しかし、芝山は
女の行動に感動を覚えたのである。
「お待たせしました。デビュー作から順番に5冊あります。ちょっと、重くてたい
へんだけど、迷惑でなかったら読んで下さい」
芝山から紙袋を受け取った女は驚いた表情を見せた。
「迷惑だなんて。こちらこそわざわざ持ってきていただいて恐縮です。あの、代金
はお支払いします」
「とんでもない。これはあなたに差し上げます。ちょっと重いけれど、受け取って
もらえればうれしいです。それから感想なども聞かせてもらったら、もっとうれし
いな」
それが芝山の率直な気持ちで、女に名刺を差し出したのもごく自然なことだった。
麻美は少しだけ戸惑うような様子を見せながらそれを受け取った。
「わたしは名刺を持っていませんが、黒川麻美と申します。幼稚園で働いています。
4月で2年になります」
まるで面接を受けているような緊張した答え方だった。芝山は書店で彼女を見つ
けたときも、電車に乗っているときも、どういう仕事についているのだろうかと気
になっていた。女が幼稚園に勤務していると聞いて意外な気がした。
芝山は女がなぜ自分のデビュー作を探していたのかを知りたかった。
「もしさしつかえなければ、どうしてぼくのデビュー作を探していたのか教えてほ
しいのだけれど」
その芝山に麻美は夢の話を聞かせた。
麻美は日本の若い作家が書く小説というものをあまり読んだことがなく、芝山祐
輔については名前も知らなかった。幼稚園で働く麻美が読むのはもっぱら絵本や童
話、あるいは幼児教育に関するものが多かった。名作と呼ばれるものは読んだこと
もあったが、それは必要に迫られて読んだにすぎなかった。
そんな麻美が「この雑誌読む?」といって同僚から差し出された女性誌をめくっ
ていったときに、見開きページに派手な色彩の鳥の絵を見つけて心が躍った。そこ
にはエッセイのような文章が載っていた。ふと、読んでみようという気になったの
は、鳥の絵に圧倒されたからである。鳥と夢に関する話が書かれてあったが、麻美
はその一部分を読んで動揺した。
『------- 子どもの頃に見た不思議な夢のことを思い出しながら生きてきたような
気がする。それはこんな夢だった。大きな風船のようなものにぶらさがった生き物
は米つぶのように小さく、近づいてみると赤・青・黄の三色をもっていた。指先で
つまもうとすると、それはすぐに消えてしまった。
夢の中であれは鳥だったのかな、と子どものぼくは考えていた。一度きりの夢だ
ったが、忘れたくなかったのだろう。その後、思い出してはいろいろに解釈してみ
た。鳥が地球にぶらさがっていたのかもしれない。でも、鳥は地球にぶらさがらな
くても立派に空を飛べるわけだし・・・。大人になってからも思い出しては、あれ
はなんだったのだろうかと考え続けているのだ ------』
読み終わった麻美は、子どもの頃に自分と同じ夢を見て、大人になってもそれを
考え続けている人がいたなど信じられなかった。芝山祐輔という人間が自分の化身
のように思えたのである。
この人が書いた小説を順番に読んでみたい。そう思うと、矢も盾もたまらなくな
り、麻美は幼稚園を出ると電車に乗って大きな書店を歩き回った。三軒目の書店に
もなければこの日はあきらめようと思っていたのだが、そこで声をかけてきたのが
芝山本人だったのである。
麻美の話を聞きながら、芝山は驚いていた。自分と同じ夢を見た人間がいるなど
考えたこともなかった。奇妙な夢である。格別ストーリーがあるわけでもなく、た
だ強烈な印象を残すワンシーン。その人だけしか見ないような夢を誰かが同じよう
に見るものだろうか。しかも、麻美とはこの日の出会いが初めてであり、年齢も十
年以上の開きがある。芝山が夢を見たとき、麻美はまだ生まれてなかったのである。
「不思議だな。ぼくは夢を見たのがいくつのときだったのか、正確には覚えていな
いのだけれど、おそらく幼稚園に通っていたころだと思う。黒川さんは正確に覚え
ているの?」
「わたしも小学校に上がる前だったことは間違いないんです。小学校の一年生のと
きにはすでにその夢の記憶がありましたから」
「そうか。ぼくは夢のことが頭から離れなくてね。もう一度見たいと思って寝るん
だけど、二度と見ることはなかった。ただ、記憶として脳裏に焼きついているのだ
から、いつもその夢を見ているような錯覚に陥る」
「エッセイにもそう書かれてありましたね。わたしも大きな風船にぶらさがった生
き物が米つぶのように見えました。それで、近づくと赤や黄色や青の色のついた鳥
のようにも見えたんです。本当なんです。もしかして、小さな生き物はわたしだっ
たのかもしれないと思ったりして。考えれば考えるほど混乱したものです」
芝山は少々の興奮が入り交じったていねいな口調の中に彼女のきまじめさを感じ
た。
「ぼくも気になっていた。不思議なこともあるもんだな。ひょっとして黒川さんと
ぼくは前世では同じ人間だったりしてね」
芝山が笑いながら冗談をいうと、麻美は真顔で「それがどこかの時点で別々の人
間になったのかもしれませんね」と答えた。
一致した夢の記憶を辿って、未知の作家の小説を最初から読もうとしている麻美
に対して、芝山は敬意を払いたいと思った。また、麻美がそれまで芝山祐輔の存在
すら知らなかったという事実についても、新鮮な気持ちにさせられ、微笑ましさを
感じずにはいられなかった。
目の前の麻美はほとんど化粧をしていなかった。細面の顔に切れ長の目、すっき
りとした鼻梁、形のいい唇、グリーンのセーターの襟ぐりからすっと伸びるきゃし
ゃな首。
仕事柄、化粧が禁じられているわけでもないだろうが、素顔がこれだけ美しいの
だから、化粧をしたらもっと花のようにきれいになるはずだ。
芝山はそんなことをぼんやりと思ったが、ふと何かの雑誌に載っていた化粧をし
ない女について書かれたエッセイを思い出した。名前は思い出せなかったが、書き
手が女だったことだけは記憶していた。
エッセイは化粧をしない女への痛烈な批判だった。つまり、彼女が言いたかったの
は、「化粧をしないのは、素顔でも十分に美しいという自信や傲慢さの表われだ」
と。さらに、書き手は訴えた。「素顔が美しいに越したことはない。しかし、どん
な美人でも化粧をする。それはより美しくなりたいからだ。それこそが女としての
自然な欲求だ。だから、同じ女として化粧をしない女を好きにはなれない」と。
芝山はエッセイを読んだときに、女ならではの見方だと感じた。どのみち女は家
に帰れば顔を洗って寝るのだ。男と寝るときだけは化粧をとらない女もいるだろう
が、いずれは素顔に戻るのだから、何も化粧をしない女につていそこまで言及しな
くてもいいのに、と芝山は思ったものだった。
黒川麻美の場合はどうなのか。単に化粧が嫌いなのか、化粧がすっかり剥げ落ち
てしまったのか。それとも自信があるのか。きょうび化粧をしない女に会った記憶
のない芝山は興味をそそられたが、それについての質問は控え、小一時間ばかりの
会話を交しているうちに、麻美への関心がますます高まっていく自分を発見した。
腕時計を見ると、すでに八時を回っていた。麻美とどこかでゆっくり食事でもし
たいと思ったが、彼女が西葛西の家まで帰ることを考えれば、これ以上引き止める
ことはできなかった。
「必ず感想をお知らせます」という麻美と別れてから、芝山は雪道を歩きながらこ
の日の不思議な出会いを思い返した。
はじまりは雪である。雪が降らなかったら、あるいは黒川麻美との出会いはなか
ったのかもしれない。
芝山はまるで雪女に会ったような錯覚に陥っていた。(つづく)