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ハーフムーン

 芝山祐輔の生活はどちらかといえば夜型だった。
 夜、十時ころから原稿を書き始め、午前五時ころに就寝し、昼近くまで寝ている
ことが多かった。
 現在、文芸誌の連載小説を1本と雑誌のエッセイを数本、そのほか文庫本の校正
なども抱えているところに、出版社の要望で2度目の書き下ろし長編小説の梗概の
作成があった。テーマは家族の破壊と再生。けっこう忙しい日々を過ごしている芝
山である。
 黒川麻美との出会いから二週間が経過していたが、芝山は彼女から何とも言って
こないことに少しばかり寂しい思いをしていた。実際のところ自分では意識してい
なかったが、麻美と出会った日のことを思い出して、妙に気持ちがうきうきしたり、
パソコンに向かっているときも、ときどき麻美の顔が浮かんできた。
 麻美は読後の感想を知らせるといっていた。どんなに忙しくても十日もあれば、
最低一冊は読み終えているはずだった。確かに固い約束などではなかったが、芝山
には社交辞令とは思えなかったのである。少なくとも自分のみた夢について語った
麻美の様子からは、生真面目な性格の片鱗が窺えた。

 芝山は麻美からの連絡を待っていた。彼女に渡した名刺にはメールアドレスも記
載してある。もし、麻美がパソコンを持っていたならメールが送られてくるかもし
れないと、メールをチェックするたびに芝山は彼女の名前を探し、電話が鳴れば、
「ひょっとしたら」と思うこともたびたびだった。
 それにしても、なぜ自分はこれほど麻美のことが気になるのだろうかと芝山は自
問自答してみる。まずは、麻美が自分の本を探していた場面に遭遇したということ、
本を求めていた理由が幼いころにほとんど同じような夢をみて、同じような感想を
もったということ。また、麻美の容姿というのも印象的だった。
 麻美が芝山の好みのタイプかと問われれば、これまで会ったことのないタイプの
女であることは確かだった。学生時代も広告代理店に勤めていたときも、そして小
説家になってからもさまざまな女が芝山の前に現われた。なぜか気が合って親密な
関係になることもあったし、二、三度食事をしただけの女もいたし、社交辞令だけ
で終わった女も大勢いた。いまでは顔は思い出せても交した会話など覚えている女
はごく限られていた。しかし、それらの中に麻美に似た女はいなかった。第一、保
母という職業についている女に会ったことなど一度もなかったし、それが珍しくて、
小説家としての意識が働いたというのか。芝山は堂々めぐりをするうちにある奇妙
な感覚に囚われていた。

 果たして、自分はこれまでの人生の中で心の底から女を好きになったことがある
のだろうか? 素朴な疑問がわいてきたのである。性愛という意味から遠く離れて
みれば、せいぜい気が合った程度の感情しかなかったのではないか。
 それでは離婚した末永美佐子もそんな女たちの一人だったというのか。美佐子と
は芝山よりも年下の女性作家の出版記念パーティー会場で知り合った。美佐子は女
性作家の大学時代の友人の一人だったのである。互いに名刺交換をしてから美佐子
はすでに読んでいた芝山の著書の率直な感想を述べるなど、会話が弾んだ。二次会
に流れてからも話題に事欠かなかった。二人ともニューヨーク生活の体験があり、
それでますます盛り上がった。どちらからともなく「また会いましょう」と言い合
い、それが実現したのは初対面からそう遠い日ではなく、芝山のほうから食事に誘
ったのである。
 美佐子はクールな発想の持ち主で、性格もはっきりしていた。仕事に対する取り
組み方も積極的で、そこそこの上昇志向を持ち合わせたスタイル美人である。美佐
子のほうは表現者としての芝山が魅力的に映った。二人はごく簡単に魅かれあい、
わずか半年で結婚した。小説家と外資系企業に勤務する才女のスピード結婚だった。
絵に描いたような理想の結婚と一部で騒がれもした。人気小説家の理知的な美しい
妻として美佐子は女性誌にも何度か登場した。「忙しいのよ」といいながら取材さ
れるのを喜んでいた美佐子だった。

 夫婦の亀裂は一体いつごろから始まったのだろうか。結婚当初は二人で朝食をと
り、彼女が出かけたあとに芝山は簡単に掃除をしてから原稿を書き始めた。彼女の
帰宅は八時近かったが二人で夕食の準備をして、向き合って食事をした。そのうち
芝山は徹夜で仕事をする日が続き、美佐子が出勤する時間帯にはほとんど寝ている
という状態になり、二人の生活パターンは完全に逆転していた。
 美佐子の帰宅時間が遅くなり、芝山も外食をするようになり、家庭とは名ばかり
の結婚生活が一年半は続いた。すれ違いの生活はコミュニケーションの不足を生み、
日曜日などたまに顔を合わせると些細なことで衝突したが、大きな喧嘩に発展する
ことはなかった。二人とも個人主義が徹底しているのだと解釈した。芝山は議論す
るのは苦手だったし、美佐子も面倒くさいといった感じですぐに自室に引き上げ、
自分のことだけに集中した。生活パターンの違いが大きな原因だったが、結婚生活
がスタートしたときから目に見えないずれの萌芽があったのだろう。
 生活を共にしながら、水面下ではかなりの断層のずれが生じていたのに気がつか
ないふりをして日々を生きてみると、それはもはや夫婦のかたちなどではなく、ル
ール破りの同居人との虚しい生活の連続性を生み、最初の出会いが色あせて見えて
くるようになっていった。どちらからともなく、「結婚前の生活に戻ろうか」と提
案し、そのとおりになった。

 二人が家族やごく親しい友人たちに報告したのは離婚届を出してからのことだっ
た。芝山の両親は渋い顔をしたが、本人同士で決めてしまったことならそれはそれ
で仕方がないといい、美佐子の両親も似たようなものだった。友人たちにいたって
は、「小説家なんだから驚かないよ」といった反応がほとんどで、離婚に対して口
をはさむ人間は誰もいなかった。すっきりとした形で離婚できたのは、子どもがい
なかったので、まるで期限付きの同居生活を解消するかのような別れ方だった。芝
山が留守のときに美佐子は一部の家財道具とともに引っ越していった。結婚も早か
ったが、離婚も早かった。
 その後、二人は何度か会って食事をしているが、旧知の友人といった気安さで近
況などを語り合った。将来はアメリカで生活したいという夢まで聞かされて、芝山
は美佐子らしいなと思ったものである。
 芝山には美佐子と暮らしていたときの記憶がぼやけて見えるときがある。気が合
って結婚したのは事実だったが、果たして本当に好きだったのだろうか。いまはそ
んなふうに思えるのだった。

  その日の夜九時すぎにも麻美からのメールが届いていないことにがっかりしたが、
すぐに気を取り直して数件のメールに返事を送り、原稿を書く態勢に入った。原稿
は三日後に締め切りが迫っているエッセイ一本と連載小説である。余裕のペースを
保ちながら、確実に原稿を書き上げていく芝山は必ず締め切りを守る、編集者にと
っては実に楽な作家といえる。
 パソコンの横のサイドテーブルの上の電話が鳴った。芝山は手を伸ばし、二回目
の呼び出し音で受話器を取った。
「おれだよ。いま、ZENにいるんだけど、よかったら出てこないか?」
 電話の主は野村賢司。芝山とは大学時代からの友人で、現在、食品会社の営業マ
ンである。すでに小学生の一男一女の父親だ。
「これから原稿を書こうと思っていたところだよ」
「そうか、締め切りが近いんだ」
「まあね。一人で飲んでいるのかい?」
「実はさ、珍しい人といっしょなんだ。芝山の話になってさ、それじゃあ呼び出そ
うってことになったのさ」
「珍しい人って、誰かな」
「それは来てのお楽しみってことでさ。でも、締め切りが近いんじゃあ、あまり、
無理には誘えないよなあ」
 珍しい人とは一体誰なんだろうか。野村と共通の知り合いというのは学生時代の
友人くらいしか思い出せない。芝山は気になった。
 時計を見れば九時半を少し回っていた。ZENは渋谷にある。これからタクシー
に乗って駆けつければ遅くても十時半前には到着するはずだ。
「締め切りは三日後だから、何とかなる。これから行くことにするよ。三、四十分
あれば着くと思う」
「おお、そうか。待っているよ」
 ラインの向こう側の声が弾んでいた。
 芝山は大急ぎでパソコンの画面を閉じ、コートを羽織って玄関の外に出たところ
で、部屋の電話が鳴るのが聞えた。一瞬、戻ろうかと思ったが、靴を脱ぐのが面倒
だったので、そのままドアに鍵をかけてエレベーターへと向かった。
 異常なほど外気が冷たく、芝山は思わず身震いした。この時間帯の渋谷方面に向
かうタクシーは空車が多く、すぐにつかまった。246をひた走るタクシーの窓か
ら外を眺めながら、ひょっとしてあの電話は麻美からだったのではないかと思った
が、すぐに打ち消した。

 宮益坂にあるZENは芝山が学生時代から出入りしているジャズが流れるバーで
ある。
カウンター席が十二席、テーブル席が二十席という広くもなく、狭くもないちょう
どいいスペースの店内に客は少なく、テーブル席の野村が芝山に向かって手を振っ
ているのに気がついた。彼と向き合っている女の後ろ姿が少しだけ揺れたのが目に
入った。 (つづく) 

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