rensai画像 (7)

 春はまだまだ遠く、朝晩の冷え込みが厳しかったが、日の長さはわずかずつ確実
に伸びてきている。午後二時、柔らかな冬の日差しが窓の外に広がっていた。
 珍しく午前中に目覚めた芝山は前夜のうちに書き上げた連載小説をパソコンの画
面上に呼びだし、最終チェックをしてから担当編集者宛てにメールで送った。その
ついでにメールをチェックしてみたが、麻美からのメールは届いていなかった。芝
山が麻美に返事を送ってから三日が経っており、そろそろ返事がきてもいいころだ
と期待していただけに少々落胆する思いだった。それとも食事に誘ったのがまずか
ったのか、などと考えているところに電話が鳴った。
 相手は電話で片岡真貴子を紹介したM出版社の編集者からだった。
「きのうの片岡さんの話ですけど、編集長が興味を示しまして、是非お会いしたい
と言っているんですよ。もし片岡さんのご都合がよければ、明日の午後二時にこち
らまでご足労願えないでしょうか。急で申し訳ありませんが」
 芝山は先方の反応の早さに驚いた。
「さっそく連絡をとってみますよ。こんなに早く返事もらえるとは思っていなかっ
たので、彼女も喜ぶでしょう。やあ、どうもありがとう」
 芝山は五歳下の編集者に礼を言った。
「それで、原稿の一部でもいいですからお持ちいただければ助かります。片岡さん
のご都合が悪ければ、アメリカに帰られるまでにどうにかこちらも日程を調節しま
すから」
「わかりました。彼女のほうから連絡させますよ」
電話を切ってから芝山は確かな手ごたえを感じた。餌を投げたら飛びついてきた。
ひょっとするとひょっとするかもしれない。

  芝山自身も真貴子のルポは読んでいないのだが、話を聞きながらこれはいけるか
もしれないなと踏んでいたところがある。
昨今、海外生活の体験記などはよほど過激な体験か、時節に即応した体験でもなけ
れば誰も興味を示さない。まして、素人がホームページで海外旅行やロングステイ
体験記を公開している時代である。出版社が無名の人間が書いたものを刊行するた
めには、リスクを背負うわけだから、話題性があり、確実に売れるものでなければ
ならない。
 そういう観点に立ってみれば、アメリカで生活する片岡真貴子が日本の若者を追
い求めて、地元のボストンを皮切りにニューヨーク、ロサンゼルス、サンフランシ
スコ、ワシントン、さらにデンバー、シカゴにまで足を伸ばしてルポを続けていた
こと自体、非凡さが際立った。
 取材対象となった若者たちはざっと二十人。画家やダンサーを目指す者から、プ
ロのラッパーやジャズミュージシャン、マイナーリーグの野球選手、ヘアメイクア
ーティスト、日本料理店の板前、農園で働く者、レストランのボーイ、ファッショ
ンモデル、日本語学校教師、自動車修理工、録音技師、タクシードライバー、そし
てゲイにいたるまで実に多彩である。しかも真貴子は「いずれ本にする予定だから、
写真も撮らせてくれ」と自分で写真撮影も行った。それぞれに現在の時間を生きる
若者の顔がなければ、リアリティが伝わらないといった力強い主張だ。
真貴子はそれらをわずか二年で敢行させたのである。そして、原稿のほうはすでに
七割方を書き上げている。
 芝山は真貴子から話を聞いたときには自分で売り込んでも十分に可能性があると
考えていた。「でも、有名人の紹介というほうが手っ取り早いじゃない」と真貴子
は押し切った。強引といえば強引だったが、この業界もブレーンはあったほうがい
い。だいたいどの世界でも「考えておきましょう」は常套句である。いつまでも待
っても返事がないことがあるし、打診してみれば「今回は見合わせてほしい」とい
うのも日常茶飯事だった。そのことからしてもM出版社の対応は素早かったという
ことになる。

 芝山は自分の名刺の裏に書き留めておいた真貴子の実家の電話番号を確かめてか
ら、受話器を取った。
「芝山と申しますが、真貴子さんはご在宅でしょうか」
「ただいま、お嬢さまは外出しておりますので、こちらからお電話をするよう申し
伝えましょうか」
 年配らしきの女の丁寧な物言いだった。芝山は一応自分の電話番号を伝え、「よ
ろしくお願いします」と言ってから電話を切った。
 至急連絡を取りたかったが、真貴子がアメリカで使用していた携帯電話が日本で
は機能しないため、彼女からの電話を待つしかなかった。

 芝山はコーヒーを煎れてから再びパソコンに向かい、本日が締め切りの女性誌か
ら依頼されているエッセイを書き始めた。
 テーマは気恥ずかしくなってしまうようなT本物の大人の女性になるためにUで
ある。二十代をターゲットにした女性誌にありがちなハウツー特集である。なぜな
のだろうか。女性誌といえばこの手のテーマが多く、芝山のもとにも注文がやって
くる。たとえばこうだ。
T大人の恋愛がしたいUT理想の結婚がしたいUT知的な女になるためにUTエレ
ガントな女をめざすU
芝山はいつも不思議に思うのだ。いずれも目的意識がはっきりしているようで、答
えが見つからない不毛のテーマである。本物とは? 大人とは? 恋愛とは? 結
婚とは? 知性とは? エレガントとは? そう問われたとして、いずれも簡単に
解答できないような哲学的テーマである。しかもそれを目的に掲げて生きていくこ
と自体、極めて抽象的である。そしてさらに言えば、誰もが目指してなれるもので
はない。同じ目的をもっても各人の性格、環境、感受性によって結果は自ずとちが
ってくる。しいていえば、T意地悪はしないUT人には優しくしようUT短気は損
気UT人をうらやむのはやめようUなどの教条的な言葉で括ってみるしかない。あ
るいは自分で経験していくうちにつかんでいくしかない。それは性差を超えたとこ
ろの問題である。
T本物の大人の女性になるためにUの特集。
 芝山は十代の終わりに観たフランス映画に登場した女、それを演じた女優につい
ての印象を書こうと思っていた。そこにヒントらしきものを汲み取ってくれるとい
い。あるいはビデオを観てもらってもいい。また、読み流してくれてもいい。いず
れにしても、芝山はその手のエッセイを書くときには、欧米文学や映画の話を書く
ことにしていた。それが楽しみでもあった。

 夢中でキーボードを打っていた芝山は室内が薄暗くなったことに気がついて壁の
時計を見ると、すでに五時を回っていた。朝昼兼用の簡単な食事をしただけだった
ので空腹も感じた。真貴子から連絡がないのが気になったが、本日中には電話がく
るだろうと思いながら書斎をはじめ、リビング、キッチンの照明を点けた。
 芝山は何か食べようと冷蔵庫の中をのぞいてみると、果物以外ですぐに食べられ
るものは何もなかった。一週間に一度の割合で、ベンツを走らせて二子玉川で食料
品や日用品を買うのが習慣になっていたが、ここのところ買い出しにも行っていな
いことに気がついた。そして、冷蔵庫にある材料でパスタをつくろうと寸胴鍋をガ
スレンジにかけたが、急に調理するのがとても億劫になった。
冷蔵庫から缶ビールを取り出して飲んだ。ふと、去年のいまごろはまだ結婚してい
たのだなと思った。そして、妻の美佐子がいないときはこうして冷蔵庫を開けてビ
ールを飲んでいたのではなかったか。離婚したのが去年の四月、誕生日の一週間後
だった。まだ、一年も経っていなかったが、芝山には妻との生活が遠い昔のように
感じられた。
 缶ビールを持ってパソコンの前に座る。
 画面に映し出された細かい文字が目にしみた。とりあえずエッセイを仕上げてか
らコンビニに弁当を買いに行こう。芝山がコンビニを利用するのは、牛乳が切れた
ときか、清涼飲料水を買うぐらいであった。弁当は買ったことがなかった。どうし
ても食べる気がしなかったが、今夜はその弁当でもいいような気がしている。書き
下ろし長編の梗概もまだ完成していなかったし、締め切りが迫っている週刊誌のコ
ラムもまだ残っていた。仕事は朝まで続くだろう。
 何気なく顎に手をやると、ザラザラした感触が手にあたった。ひげが伸びている
のがわかった。丸三日間、マンションから一歩も外に出ていないのに気がついて、
芝山は愕然となった。外部との連絡はすべて電話とメールが役割を果たし、芝山自
身はただひたすら締め切りのためにパソコンの画面を見つめながらキーボードを打
っていたことになる。考えてみれば、仕事の合間に食べて、風呂に入り、眠った。
昼夜が逆転したり、夕方、睡魔に襲われて仮眠をとったりと、三日間の時間の流れ
がつかめなかった。
 小説製造機械。真貴子の言葉を思い出した。おれは機械か。機械が繰り出す言葉
が形になって金を生み出す。機械でもいい。だが、機械が錆びついて機能しなくな
ったらどうなるのだろう。おれは新しい機械を見つけて、再び正確な動きを刻むこ
とができるのだろうか。
ビールを飲み干したところで電話が鳴った。いきなり真貴子の明るい声が聞えてき
た。
「芝山くん、ごめんなさい。留守していて」
「M出版社の読み物担当の編集長がきみに会ってみたいんだってさ。明日の午後二
時に直接、出版社のほうに行ってくれないかな」
「えー、うれしいわ。芝山くんも来てくれるでしょう?」
「いや、おれが行かなくても平気さ。こっちも原稿がたまっていて、身動きがとれ
ない状態。先方の感触とてもいいから、片岡一人でも平気だと思うよ」
「あら、そうなの。忙しいのならしょうがないわね。でも、ありがとう。さすが、
芝山くんね。これから連絡してみるわ」
 浮かれた真貴子の声に「きっと、うまくいくよ」と返事をしてから、M出版社の
編集者の名前と電話番号を伝えて受話器を置いた。
 コンビニの弁当を買いに行こう。芝山はパソコンの画面をそのままにして、トレ
ーニングウェアの上にダッフルコートを羽織り、マンションを出た。

  薄紫色の空に半月が笑っていた。ナイフで切り落としたような半分だけの月。残
りの半分はどこに消えてしまったのか。
 芝山は傾いて輝く半月をいつまでも見上げていた。 (つづく)

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