rensai画像 (8)

 夜の雑踏に押しつぶされそうになりながら歩く芝山の姿があった。
歩道にあふれかえった男女が緩慢な人の流れに逆らうことなく、呑気な顔をし
て歩いている。
 芝山が新宿に来るのは久しぶりだった。芝山にとって新宿という街は昔から
馴染みが薄かったが、これから会おうとしているS出版社の担当編集者に小料
理屋に連れてこられたのがちょうど半年前だった。この日も編集者は前回と同
じ店を指定してきた。約束の七時まで時間があったので、芝山は書店で時間を
つぶすことにした。

 新刊書コーナーをのぞく。芝山は自然に自分の新刊を目で追った。確かに本
は平積みにはなっていたが、人々から忘れ去られて埃でもかぶってそうな佇ま
いで、芝山にはそれがコンスタントに売れているとは思えなかった。担当編集
者に売れ行きが悪いと指摘されたのもうなずけた。
 すでに発売から二カ月が経過している。今後、たいした動きがなければ、こ
の一角からはずされ、文芸書コーナーに移動させられるだろう。さらに動きが
なければ平積みから棚差しに取って変わってしまうだろう。
 そんなことをぼんやりと考えていると、隣に立っていた茶髪の男が最近出た
ばかりの ロックミュージシャンの本を手にしながら、連れの小柄な女に向かっ
て喋り出した。
「ねえ、これってラビッツっていうバンドのボーカルだったんだろ?」
「そうよ。わたし、最初に出たやつ読んだよ」
「へえ。おれ、ラビッツなんて聴いたことないよ。日本のロックに興味なかっ
たからさ」
「マイナーなバンドだったけど、ライブはいつも盛り上がってたよ」
「行ったことあるんだ。どんなバンド?」
「シンプルなロックンロール。アキラって、あんまし歌うまくなかったよ。で
も、詞はよかったね」
 男が本を開いてページをめくる。
「いまも活動してんだろ?」
「してないんじゃないの。だってさ、アキラが小説で売り出したから、バンド
を維持させていくのって無理じゃん」
「やっぱな。日本のロックってさ、長続きしないんだよなあ」
「しょうがないじゃん。アキラが小説家になったんだもん。でも、そのうち再
会ライブなんてやるかもね」
「そんなもんなの? いい加減だな。あっちじゃ、ボーカルが小説家に転向し
て解散なんてあんまり聞いたことないよ。けっこう、みんなしぶとく生き抜い
ているぜ」
「それって、オヤジたちのバンドじゃん。ねえ、アキラの本、買うの?」
 女が少しばかり不機嫌な顔で男を見上げる。
「いや、買わないよ。行くぞ」
 男は手に持っていた本を元に戻し、女をうながすようにしてその場を離れた。
 若い男女のたわいない話を聞いていた芝山はいかにもロッカーという風情の
元ミュージシャンの顔を思い浮かべた。彼のことはほとんど何も知らないとい
っていい。彼の音楽を聴いたこともなければ、本人が書いたものも読んだこと
はなかった。

 芝山にとって日本のロックバンドは遠い存在だった。
 ロックと小説の融合。作家の中にはロックに傾注している者は多い。芝山よ
りも五歳から十歳以上年齢の離れた作家たちは、七十年代、八十年代を駆け抜
けたさまざまなロックから時代の空気を感じ取り、大きな影響を受けていた。
実際にバンド活動をしていた中年の作家などは、ロックを取り入れた作品も数
多く発表している。カウンター・カルチャーとしてパワーを発揮していたころ
を知る者としては、ロックというのは特別な意志をもった表現だった。芝山自
身も高校一年のときに友人の影響で外国のロックと出会った。レコードを買い、
来日コンサートにも行ったが、特に集中的に聴いたバンドもなかったし、マニ
アでもなかった。
 そんな芝山が広告代理店のニューヨーク勤務のときにたまたま仕事で知り合
ったアメリカ人に連れられてブルーノートやヴィレッジ・ヴァンガードに行っ
たのがきっかけで、ジャズを聴くようになった。そして滞在中に部屋でジャズ
を聴きながら、小説を書くようになったのである。ジャズは芝山の心を落ち着
かせるものだった。今でもジャズを聴くのは日課になっている。
 いま、三十五歳の芝山にとってロックは青春の入口であり、出口でもあり、
そして一陣の風だった。リアルタイムからははるか遠いところにあったビート
ルズ、いまだ現役のローリングストーンズ、あるいはそれぞれの時代を体現し
たロックグループの心に残るナンバーは数えきれないほどある。たまに聴いて
みようかと思うことはあるのだが、いざという段になって、やはりそれらのレ
コードやCDをプレートに載せることはなく、いつもの習慣でジャズを聴いてし
まうのだった。
 芝山はロックを拒み続けてきたわけではない。おそらく、ロックを聴けば、
平凡だった青春でさえもエモーショナルに、しかも懐かしく甦ってくるだろう。
しかし、常に現在進行形を意識している芝山には自分は郷愁を必要としない人
間だという思い込みがあった。
 たったいま、若い男女が交した会話が芝山の耳に残っていた。そして、なぜ
か彼らの話題に上がった新刊を買ってみようという気になった。いつもの芝山
なら軽く聞き流せる別世界の会話だったはずだが、自分でも気がつかない衝動
に突き動かされていた。
 芝山はその一冊を持ってレジカウンターに向かい、さらに書店をひとまわり
してから、編集者との待ち合わせの店へと向かった。

 小料理屋「はなむら」は新宿通りから細い路地を入ったところにある。
 約束の時間よりも十分ほど早く着いた芝山に「いらっしゃいませ!」の威勢
のいい声が掛かった。カウンター十席と座敷にテーブルが三つという店で、五
十がらみのふくよかな顔立ちの女将と年配の板前、それに板前見習いの若い男
の三人だけで切り盛りしていた。店内を見回すと、カウンターにも座敷にも編
集者の大野昌男の姿はなかった。
「いらっしゃいませ。芝山さん、ですよね。大野さんからご予約いただいてい
ました。座敷のほうにお席をご用意してありますので、どうぞ」
 芝山はダッフルコートを脱いで和服姿の女将の言葉に従って座敷に上がり、
壁に向かって座った。すでにテーブルには二人分の割りばしと箸置きがセット
されてあった。横を見やると、中年の男女が向き合って言葉少なに箸を動かし
てた。
「お飲み物、何になさいますか?」
 芝山は女将から湯気のたったおしぼりを受け取り、のどが乾いていたのでビ
ールを注文した。
「とりあえずお料理のほうは、板前の本日のおすすめを二、三点お持ちいたし
ましょうね。あ、そうそう、娘が芝山さんの愛読者なんで、わたしときどき借
りて読んでいます。新刊、とてもおもしろかったですね」
「それはありがとうございます。お嬢さんによろしくお伝えください」
「まあ、娘が喜びますわ。すぐにおビールをお持ちしますね」
 そつのない女将の挨拶に悪い気はしなかったが、いつもどこかで人に会うた
びに愛読者だと言われることにはなれているので、すべて社交辞令をして受け
止めているようなところが芝山にはあった。言われるたびに、芝山もそつのな
い返事をすることにしていた。
「芝山さん、お待たせしました。おビール、どうぞ」
 女将のビール瓶を持つ手つきがいかにも小料理屋の女将といった風情で、そ
れはそれで粋ではあったが、それよりもグラスに注ぎ込まれていくビールの泡
立ち方とさっと瓶を引いてテーブルに置くタイミングが実に絶妙だなと芝山は
感心した。そのときふと女将のほっそりとした長い指が目に止まった。ふくよ
かな顔からは想像もできないような指だなと芝山は思った。
 女将は「すぐにお料理のほうもお持ちしますからね」と言いおいて、その場
をはなれた。芝山が通しの豚の角煮を肴にビールを飲んだ。しかし、小料理屋
の座敷にいることに落ち着かない気分を味わっていた。聞きたくなくても隣の
男女の会話が耳に入ってきた。五十がらみの男がカワハギのうんちくを語って
聞かせ、女が「フグよりこちらのお刺身のほうがおいしいわね」と満足そうに
微笑んでいる。芝山は彼らの会話を聴くでもなく、運ばれてきた料理に箸をつ
け、ビールを飲みながらやり過ごした。

 編集者の大野昌男がやってきたのは七時半だった。「やあ、待たせて申し訳
ない」と言いながら靴をぬいで芝山の向かい側に座った。
「編集会議が長引いちゃってね。まあ、いろいろたいへんだよね。売れる新人
発掘って言ったって、芋掘るみたいにごろごろ出てこないしね。実際のところ、
話題をさらうような新人を出しても最初は注目されてもあとは梨のつぶてだよ。
大御所もはずせないしで、いつも板ばさみだなあ。芝山さん、あの梗概ね、お
もしろいと思ったんだけど、ちょっと提案があるんですよ」
 女将にビールを注がれながら大野はいきなり本題に入ってきた。書き下ろし
長編の梗概について、かなりシビアな意見を聞かされると覚悟していた芝山で
ある。
「どのような提案でしょうか?」
「まあ、そう硬くならないでくださいよ。話の筋としてはあれでいいのですが、
細かなことを言いますと、これまでになくミステリアスに書いてほしいと思い
ましてね」
 これまでになくミステリアスに? 大野の言葉が芝山には意外に感じられた。
芝山の作品はミステリーとしてカテゴライズされていたわけではなかったが、
十分にミステリアスだった。
「ぼくが書いてきた作品はそういう要素があるものと思っていますから、ここ
であえてミステリアスに書けとおっしゃられても判断がつきかねるんですが」
「そうそう、確かにミステリアス。人の人生はミステリーに満ちあふれていま
すからね」
 大野はまるで茶化すようにして笑い、目の前の皿にのった刺身を箸でつまみ
口に運んだ。芝山が黙っていると、大野は「ここはひとつ、ミステリー小説を
書いてみてはどうですか」と前置きしてから続けた。
「大げさにとらえられては困りますけど、うちとしてはせっかくの芝山祐輔の
書き下ろし長編だから、ここは腹をくくってミステリー小説として宣伝したい。
そのほうが売れると思います。売れれば、第二段も考えますから。まあ、表面
上はミステリー作家としての扱いではなく、そこはさりげなく、宣伝させても
らいますよ」
 大野の意見はS出版社の意向なのだろう。S出版社ではこの先、芝山祐輔の
本は確実に売れないと判断したのである。芝山はすでに相手の術中にはまって
いるのかもしれないと思った。
「結局のところ、売れなくなってきたから、路線変更しろということですよね」
 芝山の言い方が気に障ったのか、大野は一瞬、ムッとした表情を見せ、ジャ
ケットのポケットから煙草を取りだしてその一本に火をつけた。ため息まじり
のような大量の煙が芝山の眼前に広がった。
「そう言われては身も蓋もないなあ。確かに売れ行きは落ちていますよ。知名
度があるから今後も固定の読者は買ってくれると思う。でもねえ、きつい言い
方かもしれませんが、新しいものを求めている読者は離れていくんじゃないか
な。これはいつの世でも起こりうる現象だから、特に芝山さんがというのでは
なくてね」
 大野の態度が急にくだけたものになった。

 現在、四十二歳の編集者はS出版社では読み物部門の副編集長という立場に
あり、編集長に昇格する日も近い。大野とは芝山がデビューした翌年に第二作
目を刊行したときからのつきあいだった。百戦錬磨の豪放磊落な大野の性格は
芝山とは対照的ではあるが、信頼できる編集者の一人だった。個人的なつきあ
いこそなかったが、M出版社から四冊の単行本が刊行されていることを見ても、
大野は芝山の才能を買っているのである。その大野がいきなりミステリー小説
を書けと言ってきたことに、芝山は寂しい思いを感じた。以前は、書けるもの
なら何でも書きたいという気持ちもあったが、いまは違った。
「売れないから路線変更というのは、ひとつの手段ですよね。でも、ぼくには
書きたいものを書いていきたいという気持ちがありますからね。そりゃ、ミス
テリーも書いてみたいですが、完全にミステリー作家としてスタートするのは
とても難しいことです」
「芝山さん、そんなに無理なことをお願いしているわけではないんですよ。あ
くまで、うちとしての意見、アドバイスです。どこの出版社でも売れる本がほ
しいわけですからね。それに、ミステリー作家が路線を変更して、純文学を書
く人だっています。もっと気楽に考えたほうがいいです。まあ、芝山さんがど
うしてもいやだと言うのだったらしょうがないですけどね。ただ、これまでと
はちがう売り方をしていかないと、作家もうちも見通しが暗くなっていくとい
うのが現実ですよ」
 芝山は大野の言い分を理解することはできたが、それを受諾してしまうと作
家としてのスタンスと作品自体の方向性に大きな変化が生じるだろう。その変
化に順応できる自信は芝山にはなかった。ミステリー作家が純文学へと移行す
るのは自然な現象としても、現在の芝山にはミステリー小説に活路を見出すと
いうことに納得がいかなかった。
 芝山と大野の会話はそばの男女にも筒抜けである。男も女も耳をそばだてて
いるのか、当人たちの会話は進行している様子がなかった。

 無言の状態が続いた。手酌で日本酒を飲む大野に対して、芝山は酒を飲まず、
料理にも箸をつけずにぼんやりと宙を眺めていた。(つづく) 

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