rensai画像 (10)

再会のとき

 いよいよ黒川麻美と会うというその日、芝山は朝八時に起床して、簡単な食
事をとってから女性誌の編集長と新連載エッセイの打ち合わせのため地下鉄で
銀座に出向いた。
 陽が柔らかく、春の気配が濃厚な土曜日の銀座はにぎわっていた。明治時代
からこの街のシンボルである街路樹の柳が風にそよぎ、晴海通りと銀座通りが
交差する四角のそれぞれのビル前は待ち合わせや信号待ちの人でごった返して
いた。
 雪が降ることは、もうないだろう。麻美との再会に雪が降ることを心のどこ
かで期待していた芝山は少しばかり残念に思いながら、横断歩道を渡って七丁
目にあるビルの2階のフルーツパーラーに向かった。

 十月に創刊十周年を迎える大手出版社の女性誌は芝山が作家デビューして以
来、単発の小説やエッセイ、取材など年に二、三回、仕事の依頼があったが、
昨秋に編集長が変わってからは初めての仕事になる。前任者と同じく新編集長
も女性で年齢は四十歳、大学卒業後に同じ出版社が発行している週刊誌の編集
者として活躍していた。芝山もデビュー二年後に原稿依頼を受け、何度か会っ
ているが、その後は出版記念パーティで一度顔を合わせただけだった。
 北原菜穂子の才媛ぶりは有名で、芝山の耳にも彼女の噂は入っていた。二十
七歳で弁護士と結婚して一児をもうけたが、三十歳半ばで離婚して、最近、年
下の写真家と再婚したこと。そして、女性誌の編集長になったこと。

 約束の十一時前、リニューアルしたばかりのフルーツパーラーの窓際の席に
北原菜穂子は座っていた。トレードマークのショートヘア、クリーム色のハイ
ネックのセーターに茶系の千鳥格子のパンツというボーイッシュなスタイルは
健在であった。
 芝山が近づくと、菜穂子は切れ長の目を細めて「ご無沙汰です」と言い、軽
く会釈した。
「こちらこそ、ご無沙汰してまして。それにぼくのほうの都合でせっかくの土
曜日のお休みに打ち合わせということになってしまって恐縮です」
「とんでもない。土曜日といっても仕事していることのほうが多いもの。わた
しのほうこそ、急がせてごめんなさい。なにしろ、創刊十周年の記念号でしょ
う。準備に追われているの。芝山さんも忙しい人だから、いまからお願いして
おかないと断られてしまうかもしれないと思ったのよ」
「いえ、断るなんて。北原さんにはいろいろとお世話になっています。今回は
ありがとうございました」
 注文を取りに来たウェートレスに芝山は「アールグレイ」と伝えた。
「何年ぶりかしらね。芝山さんの本は読ませてもらっています。新刊も面白か
ったし、脂がのっているときなのね」
「ありがとうございます。北原さんも編集長になられて、ますますご活躍で何
よりです」
「相変わらず、丁寧な人ね。さっそく、エッセイの連載の話だけど、あなたは
人気作家だから、何を書いても読者には読んでもらえるのだけれど、あえてこ
ちらでテーマを考えてみたのよ。恋に食、旅、それから映画や音楽、どれもピ
ンとこないのね。そうなると、日々雑感ということになってしまうのかって思
うと、ちょっと悔しいじゃない。あなたはエッセイストではない、小説家だか
らこそ書くエッセイって何だろうか。やっぱり、ストーリーが欲しいと思った
のよ。男でも女でもいい、一人称で書くの。あたかも芝山さんが経験したよう
に思わせるミステリアスなストーリーよ。あなたの小説には一人称のものが一
つもないでしょう? それがあなたのスタンスだけど、このエッセイで掟破り
をするの。エッセイでもショートストーリーでもないものよ」

 菜穂子の話を聞きながら、ハスキーボイスの早口でまくし立てるところも健
在だなと芝山は思った。一人称で書くエッセイでもショートストーリーでもな
いもの。曖昧模糊とした提案だった。そんなことが可能なんだろうか。
「むずかしい注文ですね。確かにこれまでの小説は一人称で書かないできたし、
これからも書くつもりはないですけど、興味はそそられます」
 そう言ってから、ふと麻美との出会いが思い浮かんできた。あの出会いをア
レンジして書こうか。あの雪の降る日の出会いをふくらませて、男と女、それ
ぞれが一人称で綴るミステリー。麻美との今後の展開は芝山にも予測のつかな
いものだった。ある種のミステリーではあった。
 北原菜穂子が気味が悪いほどにっこり微笑んで「でしょう? 書いてみたい
でしょう?」と言ってから続けた。
「芝山さんも鎧を取らなきゃ。スタンスは同じでもスタイルを変えるってこと
も必要かもしれない。それで、読者がたわいのないエッセイととろうが、小説
ととろうが、それはこちらが気にすることではないのよ。あなたの新しいスタ
イルをちょっとだけ実験してみるっていうのも面白いじゃない?」
 生き生きとした菜穂子の表情に引き込まれるようにして、芝山は相槌を打っ
ていた。
「ネタがないわけじゃないので、考えてみましょう」
「さすが、芝山さんね。切り札はちゃんと用意しているのね。この線でいきま
しょうよ」
「別に切り札は持ってませんけど、書いてみましょう」
 才媛の誉れ高い北原菜穂子に担がれている自分を感じもしたが、芝山は編集
に携わる人間たちの執念を見る思いがした。読者を引きつけるため、あらゆる
刊行物がより多くの読者を獲得し、さらに引き止めておくための最善の努力を
惜しまず、チャレンジ精神を発揮していくこと。表現者の作品が商品として売
れる、売れないが彼らの生命線である。そのための仕事である。

 芝山は出版社の大野昌男を思い出した。大野もいかにして本を売ろうかと必
死であった。そのためには、作家の路線変更も辞さないのである。それは出版
界に限らず、東南アジアにお株を奪われたような製造業を始め、日本のあらゆ
る業界は四苦八苦の状態に陥り、利潤を追求する方策の転換を余儀なくされて
いる。そして、最近の芝山も自分は製造業の片割れであることを自覚し始めて
いた。作品を生み出すことは物を製造することであると。
「芝山さんが脚光を浴びたのって、確かバブルが崩壊した直後だったのよね。
だから、あなたの作品はよく売れたのかもしれない。でも、あなたがあのデビ
ュー作を書き始めたのってバブルのときでしょう? 日本が大いに潤っている
ときにニューヨークに行ってあの作品を書いたのでしょう?」
 そうだった。いまにして思えば、誰もがこのまま続いていくと信じて疑わな
かったバブルのころにおれはニューヨーク転勤を命ぜられたのだ。

 芝山は当時を振り返る。勤務する広告代理店は世界の主要国に支社があり、
アメリカだけでも三カ所に支社があった。それがいまではニューヨークだけと
なり、ヨーロッパにおいてはイギリスとフランスだけとなっているが、逆にア
ジア圏に至ってはその数が増えている。そのことからしてもかつてアメリカや
ヨーロッパを脅えさせた高度経済成長を遂げた日本の神話は崩れ去り、この小
さな大国は注目されなくなっている。「日本はどこへ行こうとしているのか」
と懸念するのは、この国の人たちに限らないのである。そして、芝山も自問自
答してみるのだ。自分も後戻りできない道を歩いているのかもしれないと。
「時代の背景を無視して作品を生み出すことができたら幸せですよね」
 そんな言葉が芝山の口から出た。即座に菜穂子が「あのころのあなたは確か
に時代とは関係なかったのよ」と言い、芝山を直視した
「だって、デビューしたころの芝山さんには時代に迎合して自分を売り込もう
という姿勢はなかったと思うのよ。それほど、あなたはクールな人だったもの。
淡々としていたでしょう? でもね、ここにきて時代があなたを変えようとし
ているのかもしれない。正直言って、最近の作品を読んで思ったのよ」
 菜穂子のいわんとしていることが手に取るようにわかった。菜穂子も大野と
同じ視点に立っているのだった。
「時代とともに作家も変わらなくては売れない、そういうことですよね」
 力ない芝山の物言いに菜穂子は一瞬、頼りない表情を見せたが、すぐにケラ
ケラと笑って見せた。
「それはみんな同じよ。大物も小物もそれで生活を支えている以上、誰もぶつ
かる問題だし、それを踏み越えていかに表現するかっていうことを追求してい
くんじゃないのかしらね。だから、さっきの話、頼みますよ」
「了解です。一度、書き上げたものを見ていただきます」
「そうしてくれると、助かるわね。ねえ、こうやって話しながら構想ができて
いるんでしょう?」
「いえ、それはないですけど、何とか北原さんの興味を引くようなものを書い
てみます」
「楽しみにしているわ。芝山さんもこれからが正念場ですよね」
「はい。覚悟しています」
 そのあと二人は小一時間ほどの会話を交して別れた。
 芝山は一人で昼食をとってから銀座の画廊を見て回り、午後四時すぎに地下
鉄で青山へと向かった。車中、芝山は麻美と再会できるのだと思うと心が弾ん
だ。(つづく)

 

(1)  (2)  (3)  (4)  (5)  (6)  (7)  (8)  (9)  (10)  (11)  (12)  (13)  (14)

(15)  (16)  (17)  (18)  (19)  (20)  (21)  (22)

HOME/MENU