rensai画像 (11)

 青山通り沿いのビルの地下二階にある青山ブックセンターに到着したのは、
約束の10分前だった。芝山は黒川麻美がすでに立ち読みをしているのではない
かと思い、ひととおり店内を見て回ったが麻美の姿はなかった。入り口近くで、
新刊を眺めながら時間つぶしをして、麻美が現われるのを待った。
 芝山と麻美はあの雪の日の出会いから約一カ月ぶりの再会ということになる
が、これまでの時間がとてつもなく長いように芝山は感じた。それでも日常的
な時間がいつもと変らずに過ぎていった日々だった。但し、脳裏のどこかには
いつも麻美の存在が引っ掛かっていた。麻美と出会った瞬間から芝山の思考回
路のどこかが柔らかに崩れ始め、そこに得体の知れない小さな萌芽の鼓動を聞
いたのである。
 この再会には何かしらの意味があるのだろう。だから、会いたいと思った。
会ってどうなるか。その後のことは芝山にも予測がつかないことだったし、考
えてもいないことだった。おれは、一体、ここで何をしているんだろうか。わ
かりきっていた。おれは黒川麻美が姿を現わすのを楽しみに待っている。それ
だけがリアルな心の有りようだった。
 ふと腕時計を見ると、六時十五分を回っていた。最初は何かの事情があって
遅れているのだろうぐらいにしか思わなかったが、一分、二分と経過するごと
に不安を感じた芝山はビルの外に出てみた。
 歩道に立って左右に目を走らせたが、こちらに向って歩いてくる麻美らしき
女の姿はなかった。約束の時間に遅れているのなら、メールに記してある芝山
の携帯電話を鳴らすはずである。しかし、芝山には麻美がその基本的なことさ
え把握できていないようにも思えた。ひょっとして、急用ができて連絡できな
いでいるのかもしれないと思い、自宅の留守電話にメッセージを確認したが、
麻美の声はなかった。
 冷え冷えとした闇の空気が芝山の身体を包み込み、通行人の姿が虚しく彼の
目に映るだけである。腕時計を見る。すでに六時四十五分を回っていた。

 人は約束の時間を過ぎて、どのくらいまで待てるものなのだろうか。短気な
人間なら十五分であきらめるかもしれない。しかし、予測可能な事情を考慮す
れば、三十分、いや一時間ぐらいは平気で待つ人もいるだろう。
 芝山自身は約束の時間には極めて正確な男だった。相手に待たされたことは
度々あっても、また、一、二分の遅刻をしたことはあったが、十分以上待たせ
たことはなかった。せいぜいが十五分程度のものだったろう。しかし、世の中
には芝山の常識など通用しないことも多々あるのだ。
 芝山が知っている女性にこんな話がある。新宿のアルタ前で交際中の男と八
時に約束したが、一時間待っても来ない。男がうっかり約束を忘れているのか
もしれないと一度あきらめかけて帰ろうとしたが、ひょっとして何か避けられ
ない出来事が発生して来れないのだと思いなおして、さらに一時間待った。時
計は十時を回っていた。いよいよ、来るはずもない相手を待っているのかもし
れないとあきらめて帰ろうと思ったときに、男がいきなり「やあ、悪かった。
上司につかまって飲んでいたんだ。もう、いないのかと思ったけれど、もしか
して、いるかもしれないと思ったから」と言ったのだという。
 芝山はその話を聞かされたとき、女と約束しながら上司と飲みに行き、女が
まだ待っているかもしれないと思ってアルタ前に姿を現わした男の神経にあき
れると同時に、2時間も外で待っていた女の忍耐強さにも驚いてしまったのだ。
まだ、二人とも携帯電話を持たなかったころの話である。以来、二人は待ちあ
わせのときは連絡のとれる場所にしたというが、一年後に二人は別れてしまっ
た。

 時計は七時を経過していた。芝山はもしやと思って店内に戻り、一応、販売
員に呼び出しの電話が入ってなかったかと尋ねてみたが、無駄だった。麻美が
約束を忘れているとは思えなかった。おそらく、何か急用ができて来られない
のか、遅れて来るかだろう。
 あと一時間待ってみて来なかったら引き上げよう。そう決めると、芝山は開
き直った気分で写真集が並ぶ棚から、日本の若手写真家の作品集を手に取って
ページをめくっていった。いずれも東京にある廃屋のモノクロ写真である。
 ビルとビルの谷間に生息する廃屋もあれば、郊外の住宅地の一角に真昼の光
を浴びながら実に悠々と建っている廃屋もある。廃屋はカメラに向って何を訴
えようとしているのか。
 芝山は目を凝らしてそれらを見つめた。廃屋のたたずまいは何者かの気配を
感じさせた。失われた時間を引き戻しながら、ここにあることをさりげなく主
張していた。見れば見るほど、廃屋はいまの時間を表現するエネルギーである
かもしれないと思いながら、芝山は写真集をもとの位置に戻した。

 ふと、入り口のほうに視線をやると、紺色のハーフコートの女が芝山の方に
向って急ぎ足で歩いてきた。麻美だった。一月に会ったときは肩までの髪を後
ろに束ねていたが、この日の麻美はちがった。
「芝山さん、こんなに遅れてしまって申し訳ありません」
「いや、多分、急用ができて連絡がとれないのかもしれないと思っていたから、
もう少し待ってみて現われなかったらあきらめようかなって。とにかく、ここ
を出ましょう」
 麻美は「本当にすみません」と頭を下げて、芝山の後に従った。
 青山ブックセンターを後にして、二人は肩を並べて歩いた。
「外出する間際に急用ができてしまって、どうにもならなかったんです。芝山
さんの携帯電話の番号、ひかえておかなかったことに気がついて。すみません
でした」
「そんなにあやまられると、ぼくが困ってしまう。それより、お腹がすいたで
しょう」
 芝山が麻美の顔をのぞき込んだ。一瞬、麻美は芝山を見つめ、「はい」でも
「いいえ」でもなく、困ったような表情を見せた。
「これから行くフォルトナって、いい店ですよ。予約をとらない店だけど、土
曜日は比較的すいているからまちがいなく入れると思う」
 芝山の声が響き、麻美にかすかな反応があった。
 もし、二人が親しい関係だったら、女は約束の時間に一時間以上も遅れてき
た事情を説明するだろう。そして、男もどうしたのかと尋ねるだろう。芝山は
そんなことを考えながら無言のまま歩いた。
 骨董通りにさしかかったとき、麻美が芝山に声をかけた
「雪、降らなかったですね」
「そう、降らなかったです。降りそうな気配があったから、期待してたんだけ
どね。もし、雪が降ったら、黒川さんを雪女って呼ぼうと思っていた」
 芝山はそう言って、麻美の反応を見た。麻美はくすっと笑ってから「まだ、
きょうは終わってません」と芝山を見た。
 麻美の硬かった表情がようやく溶け、目の中に恥じらいの色が浮かんでいた。
芝山は一瞬、なつかしい感覚にとらわれた。

 イタリアの家庭料理を食べさせる「フォルトナ」は骨董通りから路地に入っ
たところにあるこじんまりとした店である。シェフオーナーのほかに若い男の
スタッフが二人。笑顔のさわやかな背の高い男が窓際の奥の四人掛けのテーブ
ル席に案内してくれた。
 芝山は麻美に壁際の席をすすめた。ハーフコートを脱いだ麻美はワインレッ
ドのハイネックセーターに、ベージュのスラックスというカジュアルな格好だ
った。
 隣席は三十代と見られる女が二人で、ちょうど麻美の横に座っていた女が芝
山をチラッと見てハッとしたような表情になった。一度、視線を同席の女に向
けてから、今度は無遠慮に芝山を見つめた。作家の芝山祐輔であることを確認
したのだろう。さらに、横の麻美を盗み見た。芝山のように新聞や雑誌などに
露出度の高い人間にとっては、よくあることだったが、あまりいい感じのする
ものではなかった。
「ちょうどいい席が空いていてよかったよ。これで雪が降れば、最高のシチュ
エーションなんだけどね」
「窓から眺める雪ですね」
「まあ、東京だとそんなチャンス、滅多にないけどなあ。そういえば、さっき、
急用が入ったって言ってたけど、もう大丈夫なんですか?」
「はい。本当にきょうは申し訳ありませんでした」
「いや、約束を忘れられていたんじゃなくて、ぼくはよかった」
 先ほどの席を案内してくれた若者が注文を取りに来た。芝山は本日のシェフ
おすすめ料理と白ワインを注文した。
「ここの料理はまちがいなくおいしいですから。黒川さん、お酒の方はいける
口ですか?」
「お酒を飲む習慣はありませんけど、嫌いじゃないです。芝山さんはどうです
か?」
「ぼくも嫌いじゃないけど、大酒を飲むってことはあまりないなあ。まあ、ほ
どほどってとこかな」
 芝山は大学時代から友人たちと酒を飲みに行っても、いつもクールだった。
酔っぱらうという経験もなかった。そんな芝山を友人たちは「おまえ、いつも
シラフみたいな顔しているよな。もっと飲めよ。一度は二日酔になるぐらい飲
んでみろよ」と酒をすすめた。しかし、芝山はマイペースを貫いた。何のため
に二日酔になるまで飲まなければならないのか。そのほうが不思議だったので
ある。芝山の父親も酒は飲んだが、一度も酔っぱらった姿を見たことはなかっ
たし、弟も同様であった。
 ワインの瓶が運ばれてきた。二人は無言でそれぞれのグラスにワインが注が
れる様子を見つめた。
「じゃあ、乾杯しようか。再会に乾杯!」
 グラスとグラスが響きあい、クリスタルな音を奏でた。
 口にふくんだワインはほどよく冷えており、芝山は幸福感に満たされた。
「再会に乾杯っていうのはきざだったかな。でも、きみの瞳に乾杯っていうの
はもっときざだよなあ」
 芝山は一人笑った。
「カサブランカという映画の名せりふですね。高校のときにテレビで観たんで
すけど、あまり覚えていないんです」
「男が昔に別れた女とその夫のために一肌脱ぐ話。ぼくはメロドラマって苦手
だから、最初は男のやせ我慢の哲学を見たような気がしたんだよなあ。だから、
せりふが妙に浮いて感じたし」
「わたしも恋愛はいやです」
 それほど強い口調ではなかったが、麻美の表情は硬かった。恋愛映画ではな
く「恋愛はいやだ」と麻美は言ったのである。「恋愛映画」と言おうとして、
「恋愛」と短縮してしまったのか。一瞬、芝山は返す言葉を失って、麻美を見
つめた。
 ふと、フランスの諺を思い出した。「やまあらしジレンマ」。全身を刺で覆
われたやまあらしはお互いが近づくと、お互いの刺で傷つけあってしまうため
に、ある距離以上は近づかない、という人間関係の 比喩である。
 芝山がこの日の再会を楽しみにしていたのは、自らの中に芽生えた麻美への
関心があったからこそだった。その小さな芽を摘み取られたような錯覚に陥っ
てしまったのである。
「でも、恋愛はしたことあるだろう?」
 間抜けな質問だなと芝山は思った。すぐに返事がなかった。
「はい、遠い昔に」
 麻美はポツリとつぶやき、視線を窓の外に向けた。
「遠い昔か。その若さで遠い昔っていうのが、いいね」
 芝山が笑うと、麻美も笑った。不自然な感じはしたが、とりあえず、二人の
間に空気の通り道ができた。
 そのタイミングを見計らっていたかのように、前菜の盛り合わせが運ばれて
きた。
「お腹、すいたでしょう。さっそく食べよう。ところで、きみのメールにあっ
たケンタのつばさという紙芝居の話を聞かせてほしいんだけど。どんな話なの
かな」
 赤や黄や緑の色鮮やかな野菜のマリネに麻美が手にしたフォークがからむ。
麻美は柔らかな笑みを浮かべて、芝山を見つめた。
「簡単にいえば、ケンタという五歳の男の子の冒険物語です」
「それはメールにも書いてあったけど、どんな冒険なのか知りたいな」
「この地球上のいろんな動物たちと出会って、そして別れていく話です」
「ケンタは動物たちと言葉を交すことができるんだね」
「はい。でも、それは特殊な能力の持ち主というのではなくて、ケンタが動物
たちに選ばれた存在であるということなんです」
 芝山はケンタについて詳しく知りたいと言うと、麻美は楽しそうに語り始め
た。
 ケンタは三人兄弟の末っ子で、5歳。でも、二人のお兄さんとは十歳以上も
年が離れているから、かわいがってはもらっているが、あまりいっしょに遊ぶ
ことはなく、幼稚園から帰ってきても、一人でコロコロ遊んでいるような子で
ある。ケンタはとても聞き分けがいいので、お母さんも安心している。
 ところが、ある日、ケンタは庭にアオガエルがピョンピョン跳ねているのを
見つけて歓喜する。アオガエルに挨拶すると、「きみもいっしょに跳んでみな
よ」と言われて、ケンタは見様見まねで小さくピョンピョン跳ねる。それを繰
り返しているうちに、ケンタはアオガエルといっしょに大きく跳んだかと思う
と、庭から姿を消すのである。そこからケンタの冒険が始まるのである。
「今度、機会があったら、黒川さんが紙芝居で披露してほしいなあ」
「わたしが芝山さんを前にして紙芝居をするんですか?」
「そう、いいと思いませんか」
 芝山が声を出して笑うと、麻美もつられて笑った。
 そのとき携帯電話が低く鳴り始めた。発信地は麻美のバッグだった。麻美は
携帯電話を取り出し、ディスプレイを見てハッとした表情になった。一度、オ
フにしてから「すみません。ちょっと、外に出ます」と言い置いて麻美は席を
離れた。
 おそらく掛かってきた電話は今夜の麻美の遅刻と無関係ではないだろう。麻
美の急用とは一体なんだったのだろうか。芝山は一人、取り残されたような気
がした。グラスのワインを飲み干し、さらになみなみと注いだ。(つづく)

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