麻美は店の外に出たまましばらく戻ってこなかった。長い電話だなと芝山は
思ったが、目の前に新しい皿が運ばれてきたので、ワインを飲みながらひとり
やり過ごした。ふと、横の席の女がさきほどと同じように無遠慮な視線を向け
てきたのに気づき、芝山は他人をそんな目で見るなよな、と思いながらチラっ
と視線を返した。女はあわてるでもなく、意味あり気な笑いを浮かべてからゆ
っくりと視線をはずした。
重大な何かが麻美の身の上に降りかかっているのかもしれない。そんな思い
が強くなってきたところに、麻美が戻ってきた。
「申し訳ないです。落ち着かなくて」
再び席についた麻美の顔は外の冷気に当たって血の気をなくし、表情もいく
ぶん沈んで見えた。
「なんだか、たいへんそうだなあ。このまま食事していても平気ですか」
「はい、大丈夫です。本当にすみません。さっそく、いただきます」
麻美はグラスを手にして、ワインを一口飲んだ。それからナイフとフォーク
で皿にのった白身魚を切り分けて口に運んだ。伏し目がちにゆっくり咀嚼する
その口元を芝山は見つめた。
いま、この人は何を思っているのだろうか。そして、おれはここで何をして
いるのだろうか。ふと、芝山は目の前の麻美が雪の日に会った女とは別人のよ
うに感じた。漠とした感覚だった。あの朝、窓の外に見た白の世界に舞い降り
たのは幻想だったのか。この日までの時間の経過があとかたもなく消えてしま
った感覚を抱えこんで、芝山はうろたえた。
ナイフとフォークの皿にあたる音がかすかに聞こえた。息をひそめて麻美の
様子をうかがっている芝山自身がいた。早く口火を切れよ、とせかす声を胸の
裡に聴きながら、芝山はワインを煽った。わずかな沈黙だったが、それを破っ
たのは麻美だった。
「芝山さんのいちばん新しい本、『砂の宇宙』の最終章にとても印象的な文章
がありました。主人公の浩一郎が天使の梯子を眺めながら心の中でつぶやくと
ころ」
「息子の1周忌の法要が終わって、一人、由比ヶ浜にたたずむシーンだね」
「うろ覚えですけど・・・ようやく、小さなきみでも登っていける梯子がかか
ったね。暗いところが苦手だったきみにとって、この光は味方だね。ときどき
振り向いてほしいけれど、よそ見をしないでゆっくり登るんだよ。きみが雲の
宮殿に辿りつくまで見届けていよう、っていうんですよね・・・。わたし、好
きなんです」
花がポンと開いたような麻美の表情。きれいだな、芝山は一瞬どきっとした。
「うれしいなあ。実は正直にいうと、鎌倉の実家まで車を走らせているときに
見事な天使の梯子と出会ったことがあって、それであの小説を書きたいと思っ
たんですよ。あれほどスケールの大きな天使の梯子を見たのは初めてだったな
あ。百八十度の広がりだった。そして、梯子を登っていく子どもの後ろ姿を見
たような気がしたんだよ」
そのときの芝山はカメラを持ってなかったので、取材用の手帳に天使の梯子
のスケッチをした。黒のペンで、微妙な光線の色の具合をこまごまと書き添え、
最後に子どもの後ろ姿を丁寧に描いた。
芝山はスケッチを眺めるたびに、一人で梯子を登る子どもの声が聞こえてく
るような気がした。天界へと導かれるいく子どもの後ろ姿が何かを訴えている
ように思えたのである。つまり、結果が用意されてあったので、何日もかけて
原因を探っていく作業を始めた。そして、ひとつの物語が出来上がったのであ
る。
『砂の宇宙』の連載を文芸誌で始めたのは二年以上も前のことだった。恙ない
日常生活を送っていた家族に訪れる突然の不幸。八歳になったばかりの一人息
子を事故で失うことによって少しずつ崩れはじめていく夫婦の関係を描きなが
ら、「血の絆」を持たない他人同士の夫婦が再生するための手がかりを見つけ
ていこうという物語。
前半部のユーモラスな展開から暗転する後半部。担当編集者は「ここまでは
っきり明暗を分けた芝山さんにミステリアスなものを感じますね」と褒めてい
るのか、けなしているのか、判断つきかねるような感想を述べた。
芝山自身、前半と後半を意識的に二分化させたわけではなかった。一つの流
れとして書き進めていったのである。
生と死。幸福と不幸。あるいは愛と憎悪。相対立するものが実は他方をなく
しては存在できないように、二つの異なるものが表すものは同じ意味を持つ。
死の意味を知って生の意味を知りうるということ。そのようにして、芝山は生
と死、夫と妻の関係を表現したかったのである。
「ひとつ、お聞きしたかったんですが、芝山さんの作品には主要な人物の死と
いうのが登場してませんでした。それがなぜ、『砂の宇宙』では子どもを事故
死させたのでしょうか」
「正確にいえば、ぼくが事故死させたわけではないんですよ。子どもは事故死
した。死は突然にやってくることのほうが実は多いのかもしれないということ。
突然、病気になることだって、そうでしょう。『砂の宇宙』を書こうと思った
のは、天使の梯子を登っていく子どもの姿が見えたからなんだ。親にとって最
大の悲しみは子どもの死だろうと思う。まして、八歳で事故死するというのは、
とても悲惨だ。とてもいたましい。ぼくはその死をスケープゴードとしてとら
えたかった」
「誰かの身代りということですか。そうだとしたら、悲しすぎます。子どもは
生きて成長していかなければならないと思います。でも、『砂の宇宙』はいい
作品です。あの天使の梯子の描写が救いですね」
麻美の口調はいたって穏やかなものだったが、おそらく『砂の宇宙』を読ん
だときから矛盾を抱え込んでいたのだろう。麻美がデビュー作の『大地の風』
がいちばん好きだとメールに書いてきたことを芝山は思い出していた。
麻美のように毎日、園児たちと過ごしていれば、子どもの死はたとえ小説の
中でも向き合うのはつらいことにちがいない。
「神に選ばれたと言ったら、語弊があるかもしれないけれど。子どもの死が夫
婦に与えたのは悲しみだけではないってことを書きたかったんだ。ぼくは結婚
をリタイアした人間で、いまは独身だから、親と子の関係については、自分が
育った家庭でしか知りえなかった。ただ、子ども時代の自分をひとつひとつ思
い出して、考えてみることはできる」
芝山の話を聞いているのかいないのか、麻美はぼんやりとテーブルの端を見
つめていた。この人は何を考えているのか。何を悩んでいるのか。
「芝山さん、最近、夢をみますか?」
唐突な質問だったが、現実に引き戻されて芝山はほっとした。
「ほとんど、毎日、みているなあ。けっこう、最近のはリアル。締め切りが迫
っているのに、まったく書けなくなってしまったとか、編集者との打ち合わせ
の時間が過ぎているのに、車が渋滞で前に進まなくて往生しているとか・・・。
実際にはそんなことないんだけどね。ひょっとして、予知夢かもしれないなあ。
でも、いつだったか、奇妙な夢を見たなあ。見知らぬ女の人に話しかけられて
驚いて目を覚ましたよ。黒川さんはどうなのかな?」
「わたしもほとんど毎日、みてますね」
麻美の真っすぐな視線を芝山は受け止めた。
「どんな夢?と聞いてもいいかな。フロイト流には解釈しないから」
芝山は機嫌よく笑ったが、麻美の表情に変化は見えなかった。
「子どもがよく登場するんです」
「ああ、それは仕事柄ですね。園児たちと遊んでいる夢?」
一瞬、麻美の表情がこわばり、手にしていたグラスを置いた。
「いえ、うちの園児ではありません。子どもは・・・アキラっていいます。昨
夜、アキラがころんで怪我をした夢を見ました。すると、きょうの昼すぎ、本
当にアキラは怪我をして、病院に運ばれました。正夢になってしまいました」
「それで、きみも病院に行ったんだね。怪我の状態はどうなの?」
言ったあとから、芝山は何かが壊れていくような感覚を覚えた。
「アキラは母といっしょに公園に遊びに出て、階段から転げ落ちたんです。頭
から出血したので、心配したんですけど、レントゲンでも異常は認められない
ということだったのでホッとしました。でも、腕を骨折しました。いまさっき、
母と帰宅したようです」
そこまで一気に話した麻美の目がうるんでいた。飛び散ったパズルが一瞬の
うちに明確な形を描いた。アキラは麻美の息子・・・?それなら、なぜきみは
いまここにいるのか。
「黒川さん、急いで帰ったほうがいい。そういう事情なら、無理して来なくて
もよかったのに。あとで、連絡もらえれば、それでよかったのに」
「いえ、約束は約束でしたから。連絡がとれなかったのはわたしの不手際でし
た。すみません」
「きみがあやまることないんだよ。さあ、ここを出ましょう。電車じゃ、時間
がかかるからタクシーを拾おう」
芝山は麻美をうながし、レジカウンターで支払いを済ませた。
土曜日の八時半、タクシーはすぐにつかまった。芝山は財布から札を抜き出
し「これ、タクシー代」といって麻美の手に握らせた。
「ご迷惑をおかけしたうえ、タクシー代までいただけません」
「気にしないで。とにかくアキラくんのそばにいてあげなさい」
「ありがとうございます。わたし、きょうの再会を楽しみにしていました。芝
山さんに会いたかったんです」
「ぼくも楽しみにしていたよ。落ち着いたら、連絡してください」
「はい、必ずご連絡します。芝山さん、わたしは逃げたかったんです」
麻美はそういうなり、タクシーに乗り込んだ。ドアが閉まり、すぐに車は発
進した。
芝山は麻美を乗せた車のテールランプが視界から消えるまで立ち尽くしてい
た。(つづく)