芝山と麻美が再会した日から半月が過ぎた。
三月に入ってから、寒さがゆるみ、春の匂いをからませた風が吹くようにな
った。
芝山は、小説を書くことと、そのための細かい取材、そして編集者との打ち
合わせに追われるだけの変化のない日々を過ごしていた。
麻美からは再会の日の翌日に簡単な謝罪のメールが届いたきり、なんともい
ってこなかった。メールではなく、電話で声が聞きたいと思った芝山の返事も
子どもの怪我の一日も早い回復を願い、「落ち着いたら会いましょう」と書き
添えただけだった。
芝山は小説を書くことに集中していても、頭のどこかであの日の麻美のこと
を考えていた。
麻美はシングル・マザーなのか。あるいは離婚して実家に戻ったのか。いや、
それらは自分の勝手な推測で、ひょっとしたら夫がいるのかもしれない。別居
中なのか。子どもの正確な年齢はわからなかったが、麻美の二十四歳という年
齢と現在の幼稚園教諭という仕事を考え合わせれば、いったい彼女はいつの時
点で出産したのだろうかという下世話な疑問が次から次へとわいてきた。
実際のところ、麻美については何も知らなかった。果たして、怪我をした子
どもは麻美の子どもなのか。時間が経過すればするほど狐につままれたような
思いが強くなり、麻美の子どもであるという確信はもてなかったが、「わたし
は逃げたかったんです」といったときの苦しそうな表情がすべてを物語ってい
るような気がした。
雪の日、はじまりは衝動だった。日本文学の棚の前で立ち読みしていた麻美
の姿に、吸い寄せられるようにして近づいていった衝動。レジカウンターで単
行本の在庫を問い合わせている麻美に思わず声をかけた。あのときは確かにう
れしかったのだ。サイン会で出会う読者に対する気持ちとはまったく異なるも
のだった。衝動はごく自然な気持ちの流れで、他意はなかった。
芝山がこれまでの人生を振り返ってみても見知らぬ女に声をかけて、コーヒ
ーを飲みながら会話を交すなどという行動に出たことは一度もなかった。
二人が交した会話を反芻してみる。夢の話である。時を超えて同じような夢
をみたという共時性に二人は魅かれ合ったのである。
あの日の芝山の行動はひとつのリアリティだった。自己の意識を超えたとこ
ろのエネルギーが身体から吹き出し、それを受け止めたのは麻美の無意識では
なかったのか。あるいは、遠い過去の記憶の重なりだった。夜空に浮かぶ傾い
た半分の月。あちらとこちらで同時に眺める半分の月。「ハーフ&ハーフ」と
つぶやいてみた。
それにしても、と芝山は考える。二度目の出会いは、最初から何かがずれて
いた。時間も距離も、そして交す会話も。麻美の意志とは関わりなく、輪郭を
描き始めようとした過去の時間・・・。「逃げたかったんです」とは、おそら
く現在の状況のことを示しているのと同時に過去の時間も含んでいるはずだっ
た。そこに考えがおよぶにいたって、芝山はキーボードを打つ手を止めた。
「そんなこと、どうでもいいんだよなあ」とひとりごちてから、ふと、別れた
妻の美佐子がいった言葉を思い出した。
「あなたがどうでもいいっていうのは、ほんとはどうでもよくないのね」
二人が離婚する少し前のことだった。すれ違いの生活が続いていた日曜日の
夜、久しぶりに美佐子の手料理を食べているとき、
「あなたの新刊、そろそろ出るころよね? 百冊ほど買い取りたいという人が
いて、サインをしてほしいんだけど、いいわよね」
「かまわないけど、いったいどこの誰が百冊も買い取るのかな」
「銀行の副頭取よ。なんでも、娘さんがあなたの熱心な愛読者で結婚式の引き
出物のひとつにしたいんだってよ」
結婚式の引き出物と聞いて、芝山はなんとなく釈然としなかった。まだ読ん
でもいない新刊のサイン本を引き出物にするという発想にその娘の見栄のよう
なものを感じた。
「本を引き出物にするという発想がわからないな。人それぞれ嗜好もあるし、
ぼくの本をもらってうれしいという人が何人いるだろうか」
芝山の率直な感想だった。もし、自分が出席者のひとりで、それほど関心の
ない作家が書いた本をもらってもうれしいとは思わないだろう。それがサイン
入りだとしてもだ。第一、美佐子は仕事のほうが忙しくなってきたこともあり、
芝山が書いたものを読まなくなった。そんな美佐子が得意先の銀行の副頭取か
ら頼まれたといって、知りもしない新刊本にサインをさせようなどとは虫がよ
すぎるのではないか。
「あなたの本を読む読まないは別にして、芝山祐輔のサイン入りの新刊に価値
があるんじゃない。副頭取の娘さんがあなたのファンだってことも何かの縁だ
と思うわ。披露宴に出席する人も若い人が中心だっていうから、ちょうどいい
のよ。もし、あなたがいやだっていうのなら、しょうがないけれど」
芝山は美佐子の言い方が気に入らなかったのかもしれない。「読む読まない
は別にして」というの表現が無神経に感じられ、さらに先回りして、相手の答
えを引き寄せようとする性急さが美佐子らしいなと思ったのである。
「感想をいっただけで、別にいやだとはいってないよ。それに、もう引き受け
てしまったんだろう? サイン本は版元から送らせるよ。ぼくの本を読んでも
読まなくても、そんなことはどうでもいいんだ」
ひとこと余計だと思った瞬間、美佐子は大きくため息をついてから、
「どうでもいいというのは、本当はどうでもよくないことなのよね。あなたっ
て、いつもそんなふうにして逃げているわね」
美佐子の乾いた声が耳にとどいた。逃げているわけではない。どうでもよく
なるのである。芝山は返す言葉を探すでもなく、しばらく押し黙ったままだっ
た。空気が澱んだ。室内に流れていたサウンドが美佐子の好きなマライア・キ
ャリーの曲であることにはじめて気がついた。
芝山はそのときのことを思い出していた。結局、芝山は結婚披露宴の引き出
物用の百冊分にサインををして、版元から送らせた。担当の若い編集者は「不
特定多数の読者を開拓する方法としては、いいアプローチじゃないですか。奥
さんはなかなかの策士ですね。芝山さんの本はともかく、こちらとしては在庫
を抱えている作家のサイン本は一册でも多く売れてほしいから、それは営業戦
略の一つかもしれませんね」と冗談とも本気ともとれるような感想を述べた。
美佐子が直接、銀行の副頭取に働きかけたわけではなかったが、そういう買い
取り方法が全国各地に普及してもおかしくはなかった。但し、売れっ子作家の
本か、話題の本であることが条件だろう。
その結婚披露宴に出席した美佐子は副頭取に感謝されたと嬉々として語って
いたが、芝山は素直には喜べなかった。
美佐子と交わす会話がぎくしゃくするようになったのは、そのころからでは
なかったか。それまで気がつきながら聞き流していたことがどれだけ多かった
のかを思い知らされた。生活基盤のズレはそのまま感情の行き違いを招き、ど
れほど会話の歪みを生んだのだろうか。
離婚後に何度か食事を共にした二人は結婚前の妙に明るい会話を交わし、笑
い合ったりしているのだから、あの結婚はまるで離婚するためにあったような
ものだ、と芝山はひとり苦笑するしかなかった。
自分のほうから麻美に「会いたい」とメールを送ってみよう。芝山が意を決
して、パソコン上にメールのアドレス帳を引き出したのは、ミステリー・タッ
チで構成した家族の崩壊と再生の物語の中盤にさしかかったころだった。
新規メッセージのウインドウが開かれる。件名に「会いたい」と打ち込んで
みた。恥ずかしかった。すぐに削除してから、芝山はしばし考えた。「その後、
お元気ですか」「いかがお過ごしですか」「雪は消えました」「三月になりま
した」と次から次へと打ち込んでは削除する。適切なタイトルが思い浮かばな
い。タイトルなどどうでもいいと思う一方で、どうでもよくはない、タイトル
は重要だと主張する自分がいた。いったい、おれはなにやってんだろうか。
芝山はのどが乾いていることに気がついて、キッチンに向かい、冷蔵庫から
缶ビールを取り出して飲んだ。ふと、明け方に見た夢を思い出した。
「きみの夢を見た」
芝山は急かされるようにして本文を書き始めた。
黒川麻美さま
あの日、黒川さんと別れたあと、ぼくは青山通りにあるカフェに寄りました。
窓際の席が空いていたので、そこでぼんやりと外の風景を眺めながら黒川さん
のことを考えていました。
雪の日の出会いから、届いたメールのこと、そして、あの再会の日までのこ
とをできるだけ正確に思い出してみました。「正確に思い出してみる」という
より「鮮明に覚えている」と表現したほうが正しいのでしょう。
これまでの個人的な時間の経過は黒川さんの存在なくしては語ることのでき
ないものだと思っています。ここまでの経緯を文章で表現すれば、ミスティリ
アスな短編が出来上がりそうです。
「誰もが自分のドラマを生きていく」とは、ごく自然なこと。どんな人生もド
ラマだからね。
そうした見地からはずれながらも、いまのぼくはこう思うのです。雪がドラ
マを運んでくれたと。まあ、きざなことを書いているなと笑いとばしてくださ
い。
人生の断片をすくいとってみれば、すべてが短編になりそうです。しかし、
ぼくのこれまでの35年の人生を顧みたとき、断片は断片でしかなかったように
思われるのです。何かが足りなかった、と。確かにぼくの意志的な言動はあっ
たが、何かに導かれるようにして身体がすーっと動いたような衝動はなかった
ような気がするのです。
雪が降ったあの日。雪はぼくの人生に意味を与えたのだと。そう思いました。
まあ、ここでもきざなこと、あるいは青臭いことを書いているのかもしれませ
んが、十分に真面目ではあります。
ぼくは、ゆうべというか、明け方に黒川さんの夢を見ました。黒川さんが夢
に登場したのはこれが初めてでした。それは夢とは思われないほどにリアルで、
目覚めたとき、ぼくは残念な気持ちでいっぱいになりましたが。この夢にも意
味があると勝手に思っています。まあ、内容については、恥ずかしいのでここ
では書き記すことはしませんが。
あの日、怪我をしたのは黒川さんの息子さんでしょうか? その後、怪我の
状態はどうですか? 心配していますが、もし、差し障りがなければ知らせて
ほしい。
「逃げたかったんです」と黒川さんは言いましたね。何から逃げたかったのか
を、ぼくは考えないことにしました。ぼくも逃げたくなることがあります。ま
ず、小説を書くことから逃げたい。しかしながら、逃げたいと思えば思うほど、
小説を追いかけている自分に気づいて愕然とします。まるでイタチごっこです
が、光明を求めている、出口を探している自分を眺めるのもけっこう興味深い
ものです。
ぼくは再び家族の物語を書いています。ミステリー仕立てです。実に淡々と
過ぎていく日々の中で、新しい物語と向き合っている時間だけは特別なものら
しい。それは時間という概念から離れた世界で、自分が消えてしまったかのよ
うにも感じられる空間であります。いずれにせよ、ぼくは書き続けていきます。
三月だね。会いましょう。また、再会しましょう。
芝山祐輔
一気に書いてから再読すれば、気恥ずかしくなるような箇所も多々あったが、
芝山はそのまま送信した。深夜のメールである。缶ビール一本にしては、饒舌
なメールだった。余力があったので、小説の続きを書き始めた。
午前四時、きりのいいところまでと書き進めてきた芝山は少しばかりの期待
を抱いてメールをチェックした。果たして、黒川麻美からの返事が届いていた。
発信された時刻を見れば、午前二時三十三分とあった。(つづく)