rensai画像 (14)

芝山祐輔さま
温かなメールをありがとうございました。
とてもうれしい気持ちでいっぱいになりました。
芝山さんにメールを書こうと思い、毎日のようにパソコンに向かっていたので
すが、なにをどう書いていいのか考えがまとまりませんでした。
あの日、ご迷惑をおかけしましたことを、あらためてお詫びいたします。

息子の怪我を心配してくださってありがとうございます。息子の名前は「晶」
と書いてアキラと呼びます。六月に五歳になります。
骨折した左手首はギブスで固定させていますが、お医者さまの診察によればあ
と一週間もすればギブスから解放されるとのことで、ほっとしています。怪我
をした当初は肩から三角巾で釣っている状態でしたので、本人はとてもいやが
っていましたが、いまは三角巾もはずし、元気に幼稚園に通っています。顔に
受けたいくつかのかすり傷も徐々に消えてきました。
ただ、夜中に声を上げて泣くことがあります。寝返りをうったときに折れた左
手首に痛みが走るのかもしれません。階段から転げ落ちた夢をみるのかもしれ
ません。そのときは晶の頭をなでながら右手をにぎったりすると、泣きやみ、
やがて静かな寝息に変っていきます。

二日前の日曜日のことです。晶が公園で遊びたいと言いだしました。怪我をし
て以来、初めてのことです。母とわたしは公園に行くのは忍びなかったので、
「まだ寒いからもっと暖かくなったらね」と言い聞かせると、晶は「いま、公
園に行きたいよ」と言ってきかないのでした。公園に行けば、あの日のことを
思い出して混乱するような気がしました。母もそう思ったのでしょう。二人で
あれやこれや話題を探しては、晶の気をそらそうとしましたが、「じゃあ、ぼ
くひとりで行ってくる」と小さな背中を向けました。ふだんは駄々をこねるほ
うではないのですが、頑固なところがあります。それでも、納得できれば、意
外にあっさりしています。でも、このときはちがっていました。納得できなか
ったのでしょう。本当はわたし自身が公園には行きたくなかったのかもしれま
せん。晶が公園に行きたいと言いだしたことは彼の中の大きな変化です。そこ
に注意を払うべきなのに、阻止しようとする自分の小心さを反省しました。
「公園に行こう」とわたしは覚悟を決めました。

家から歩いて十分ほどの小さな公園です。
そこに行くには歩道から階段を登らなければなりません。晶が転げ落ちた階段
です。わたしの左手と晶の右手はしっかりと繋ぎあわされていました。わたし
は階段を見上げてから、晶の顔をそっと見ると、彼も階段を見上げていました。
そして、「ぼく、この階段から転がったんだよ」と言いました。見慣れている
はずの階段ですが、そのとき現場にいなかったわたしは晶が転がっていく姿を
想像してどきっとしました。
晶の右手がわたしの手を引っ張り、登ろうとうながしました。
二人で一段、一段、ゆっくりと登りました。ちょうど、中間にさしかかったと
ころで、わたしは「どこから転がったか覚えている?」と聞いてみました。す
ると、晶は「うーんと、ここぐらい」と振り返って階段を見下ろした瞬間、恐
怖が走ったのか、わたしの手を強く握りしめました。小さな手のどこにこんな
力があったのかと思うぐらいの握力でした。
わたしは思いました。晶が怪我をした瞬間からこの日までの時間の経過を、母
親であるわたしはどのように受け止めていたのだろうか、と。

遡れば、あの日、わたしは息子が怪我をしたというのに、芝山さんとの約束を
守らなければならないと思って出かけたのでした。でも、今にして思えば、果
たしてそうだったのかという疑問がわいてくるのです。あのとき、晶が怪我を
したことを知って病院に駆けつけたとき、わたしはふわっとした感覚に襲われ
ました。的確に表現できないのですが、目の前の現実を現実として受け止めら
れない感覚です。芝山さんとの約束がまるで呪術のようにわたしを現実的な時
間から引きはなそうとしました。ふわっとしました。「会いたい」とか「逃げ
たい」という具体的な言葉はあとから沸いてきたものなのかもしれません。そ
れらの言葉がもつ意味さえもわからずに、わたしはふわっとしたのです。小さ
な晶が手首を骨折して、頭から血を流し、顔に傷を受けたというのに、わたし
はそうした事実を受け止めることができなかったのです。

あれから半月が経ちました。三月になりました。日ごとにわたしは芝山さんに
対しても、晶に対しても、申し訳なさでいっぱいです。晶は元気です。でも、
日曜日、公園に行ったとき、息子と階段を登りつめたときにこの小さな身体と
心が訴えるものを聴いてみたいと思ったのでした。晶の後ろ姿を見つめていた
ら、きゃしゃな首のあたりに人間の孤独(こういう言葉は的確ではないのです
が)を感じたのでした。こんなに小さくても一人の世界をつくって生きている
のだと思いました。怪我のショックを与えたのも、そして一番肝心である父親
不在の寂しさと不思議さを与えたのもこのわたしです。
この世に晶の「お父さん」は確かに存在しています。でも、「お父さん」と呼
べる人は晶の目には見えません。晶は何度か「パパはどこにいるの?」と聞い
てきました。そのことに関して、わたしは「お父さんは遠くにいて帰ってこら
れないのよ」と言いました。わたしの父も母も同様です。今では疑問をもって
いても「父の存在」について口には出しません。こんなに小さな子どもがひと
つの宿命を背負わされ、そして怪我をして、晶はわたしには見えなかった大き
な世界をもったのです。

そして、晶が怪我をしたあの日、芝山さんと再会したあの日をわたしは胸に刻
みつけました。本当にいろいろと気づかされることの多い一日一日です。
長々と書き綴りました。それも自分のことばかり・・・。
芝山さんの本を読むのが日課になっていることに喜びを感じています。ひとた
び、本を開くと、ふわっとした世界が広がり、わたしは吸い込まれていきます。
そこに逃げ込んでいるのかもしれません。

芝山さんとお会いできたことに感謝しています。
そして、新しい小説をとても楽しみにしています。
黒川麻美

ベッドに入っても明け方近くまで眠れなかった芝山がようやく眠りについたの
は午前七時だった。なにものにも妨げられずに泥のように眠った。目覚めると、
東向きのベランダのカーテンから差し込んでくる光の柔らかさを感じた。その
ままベッドから起き上がらずにぼんやりと天井を見つめた。
芝山は麻美から届いたメールを思い出していた。息子の晶について書かれたく
だりのひとつひとつに麻美の正直な気持ちが読み取れた。いつ、誰と、どのよ
うして結ばれ、晶がこの世に存在したのか。そして、どういう経緯で、晶の父
の不在に至ったのか、少なくともそこまで遡ってみなければ、麻美という人間
は見えてこないだろう。秘密の匂いがさらに濃くなったようだった。しかし、
すぐにそんなことはどうでもいいことなのだと打ち消した。少なくとも芝山に
向けて心境を綴ってきたこと、それは麻美が元気であるという証だった。

その日は外出する用事がなかったので、芝山はゆっくりと風呂に入ってから、
冷蔵庫の中のありあわせの材料でスパゲティを作り、朝刊を読みながら遅い昼
食をとった。食器を洗い終わったころに、コーヒーが沸き、マグカップにたっ
ぷり注ぎ込んでからデスクに向った。時計は午後3時を回っていた。
コンピューターを起動して、メールチェックをしてみると、十数件のメールが
届いてた。そのうち仕事に関するメールの返事を手早く書いて送信してから、
「ASAMI」と付けたフォルダから昨夜のメールを引き出して読んだ。やは
り、最後の二行が気になった。
 芝山さんとお会いできたことに感謝しています。
 新しい小説をとても楽しみにしています。
その二行のあとに、なぜ「また会いましょう」と続けて書かなかったのだろう
か。単に気がつかなかったのか、あるいは意図的に避けたのか。おれは小さな
ことを気にしすぎだな、とひとりごちてタイトルに「会いましょう!」と力強
く打ち込み、返事を書き始めた。
麻美の小さな息子にふれて書いているうちに、ふと、晶に会ってみたいと思っ
た。麻美によく似た男の子のような気がした。
ここ一週間のうちに書き上げるべき原稿が山のようにたまっていたので、麻美
に会うのは桜の咲くころになりそうだった。幼稚園も春休みになっているだろ
うから、麻美と晶を車に乗せて、三人で花見というのも悪くない。晶はおれを
見てどういう反応を示すのだろうか。そんなふうに想像している自分に苦笑し
ながら、芝山は「晶くんと三人で会いましょう」と締めくくり、追伸として麻
美の電話番号と住所を知らせてほしいと書き添えたのである。

芝山は集中して連載小説を書いていた。脳裏には麻美の顔と彼女に関するいく
つもの疑問が焼きついたままだったが、不思議なことに小説世界に入り込むと
それらとは連動しながら集中できるものだった。
途中、何度かデスクから離れることはあったが、連載小説を書き上げて担当編
集者宛にメールで送信したときには夜の九時になっていた。
ひと仕事を終えた解放感から急に空腹を覚え、冷蔵庫の中を覗いた。何か作ろ
うと思ったが、面倒なのでジャケットを引っかけて外に出た。
空を見上げれば、星ひとつない夜だった。歩いて五分ほどのコンビニで売れ残
ったような惣菜とおにぎり二個を買い求めて、マンションに戻った。
電話が鳴っていた。急いで受話器を取ると、「芝山くん、元気なの? キング
真貴子よ」と威勢のいい声が耳に届いた。
一瞬、芝山は間違い電話かと思ったが、すぐに片岡真貴子であることに気がつ
いた。キング真貴子は彼女の現姓だった。
「相変わらずきみは元気そうだね。ルポのほう進んでいるのか?」
「快調よ。いろいろ準備やら打ち合わせやらで三月の下旬に帰国するのよ。一
週間の滞在よ。だから、時間あけておいてね」
三月の下旬は桜が咲くころじゃないか。麻美と晶の三人で花見に繰り出せれば
いいなと思っていた矢先のことだったので、芝山は少しばかり動揺した。
「まだ、予定が立たないけれど、近くになったらまた連絡してくれないかな」
「ほら、ちょうど桜のシーズンでしょう? 日本の桜はずうっとご無沙汰だか
ら、お花見したいわ。鎌倉に行きたいし、夜桜デートなんていいじゃない」
すぐ近くから電話しているように、ケラケラと笑う真貴子の声が大きく響いた。
「でも、花見している暇なんてないだろう?」
「ずいぶん冷たいのね。ガールフレンドとお花見の予定でもあるの?」
タイミングがいいのか勘がいいのか、よくわからない真貴子である。
「いまのところは予定ないよ」
「ちょっとムキになっている様子の芝山祐輔くんね。とにかく一度くらい会っ
てよね。ところで、ニューヨークで取材した日本人の若者が芝山くんの愛読者
だというのでびっくりよ」
芝山も驚いた。素直にうれしいと思った。
「へえ、何しているのかな」
「レストランでバイトしながらデザインの勉強しているんだってよ」
「デザイナー志望か」
「そうね。芝山祐輔はわたしの友達よって言ったら、感激してたわよ。だから、
今度、日本で会ったらサインもらっておくと言っちゃったから、芝山くんよろ
しくね」
「ああ、わかった。じゃあさ、長くなるといけないから、とにかく帰ってきた
ら連絡待っているよ」
「オッケー」
切れたラインの向こう側の溌剌としている真貴子を想像してみた。昔と同じよ
うに彼女の人生は華やかで、大輪のバラを思わせた。(つづく)

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