昼夜逆転の日々が続いていた。
最近の芝山祐輔の生活は、編集者との打ち合わせがなければ、ただ原稿を書き
続ける日々である。明け方まで原稿を書き、朝刊を読んでからベッドに入り、
昼近くに目覚め、必要に応じて掃除、洗濯などをして、食事をつくる。そして、
冷蔵庫の中身が乏しくなると、車で青山のマーケットまで行って、食料品や日
用雑貨などをまとめ買いをする。気分転換は近くの公園を散歩したり、深夜に
小一時間ばかり車を走らせる。
締め切りが目前に迫ってくると、家事は後回しになり、原稿を書き続けながら、
その合間に空腹を満たすためだけに食物を口に入れるという具合だ。スポーツ
クラブで汗を流すこともなくなったが、たまに思い立ったように腹筋をすると
翌日には筋肉痛となり、五キロのダンベルを持ち上げてみて、こんなに重かっ
たのかと情なくもなる。
作家といえば、編集者に連れ回されて豪遊しているように思われがちだが、実
際のところは遊んでばかりいたら原稿を書く時間がなくなってしまう。人が思
うほど派手な日常ではない。そういう作家もいるのだろうが、芝山は違った。
文壇とのつきあいもなかったし、酒を飲むような親しい作家仲間もいなかった。
誰かと雑誌などで対談してもその場かぎりのことが多く、一人で行きつけの店
に行って酒を飲むような習慣もなかったし、サロン的な雰囲気の店で熱っぽく
語り合うのが苦手だった。
誰かと時間を共有するのなら、小説とは遠く離れたところで会っていたいとい
う芝山である。しかし、ここのところそういうこともなくなっており、ライフ
スタイルに変容の兆しが訪れている。黒川麻美と出会ってからというもの。
関東地方の桜が静かに咲きはじめた。
マンションのベランダから望む大きな公園の桜並木は三分咲きだったが、一両
日に薄桃色の彩りに変るだろう。しかし、芝山が麻美に宛てて送った「会いま
しょう!」のメールに返事は届かず、ただ時間だけが忙しく過ぎていった。
芝山はどこかでそんなことを予測していた。麻美からの長いメールを読んだと
きにも感じたことだった。それにしても、と芝山は思う。会う約束はしなくて
もいいから、ひとこと元気でいるのかどうなのかぐらいは知らせてほしい。そ
れがないのを残念に思った。しかし、彼のほうからは再度メールを送ることは
しなかった。一方では、麻美の出方を待っているほうが楽しい、そんな気もし
ていた。
麻美とはいつかどこかで会える、必ず会うのだ。確信の裏付けとして、彼女の
ことをもっと知りたいという欲求がわいてしまったからである。
麻美に小さな息子がいたことはひとつの驚きではあったが、「人生には、そん
なこともある」と冷静に受け止めてみたとき、さらに麻美のこれまでの人生に
関心が向けられるのだ。
芝山の人生において、麻美との出会いは稀有なものだった。彼女の存在はもは
や作家的興味を超えて、芝山自身が彼女に抱くイメージを喚起させたのである。
二日前に書き上げた新連載のエッセイは女性編集者、北原菜穂子の要求と合致
する出来栄えだったらしく、メールで原稿を送ったその日のうちに彼女から電
話があった。
「雪の女、おもしろいエッセイというかショートストーリーだわ。とてもミス
テリアスだしね。十周年記念は十月号だから、ちょっと早めに雪女の登場って
とこね。次に雨の女っていうのは安易だけれど、メタファーとして女の形をイ
メージしてみたいわね。何々の女シリーズでいきましょうよ。季節が一巡した
ところで、最終回に夢の女っていうのは、どう?」
北原と同じようなことを考えていた芝山は内心にやりとした。あらゆるメタフ
ァーは麻美に直結する。種あかしをするまでもなく、麻美はすぐれた素材でも
ある。
「雪の女のタッチでいこうと思っているだけなので、あれは十二月号にまわし
てもらって、記念号の掲載分はまた書きますよ。鉄の女、石の女、風の女、森
の女っていうふうにいろいろ考えています。ただ、最終回を夢の女にするって
いうのは異論ありですね。ムードとしてはいいけれど、男が夢みる女っていう
オチみたいで、ありふれているし、まあ、こちらも予測がつかないので、楽し
みにしていてください」
「そういえば、安部公房に“砂の女”、中上健次に“水の女”っていう作品が
あったわよね。芝山さんの切り札、楽しみにしているわ」
電話を切ったあと、芝山はしばし現実と虚構の間を彷徨っていた。
おれが書こうとしているのは、麻美のイメージなのか。それともおれがこれか
ら作り上げようとするおれと麻美の物語なのか。おれは書くために麻美に会い
たいと思っているのだろうか。いや、それはちがう。否定してみる。
芝山が女との出会いについて想像力を膨らませてみようとするのは、黒川麻美
が初めてのことである。過去に交際した何人かの女たちをぼんやりと思い浮か
べてみると、流れに逆らうことなくむしろ自然につきあい、そして別れがやっ
てきた。妻だった美佐子にしろ、それは同じである。しかし、麻美との出会い
はちがっていた。
あの雪の日に、初対面にもかかわらず不思議な夢のことを芝山に語って聞かせ
た黒川麻美という存在はアメーバーのように彼の中で増殖をはじめ、次から次
へと新しい細胞を生み出しては芝山を悩ませる。たった二回しか会っていない。
交したメールも少数だ。しかし、意識すればするほど、新しい時間が生まれて
くる。未曾有の地に足を踏み入れてしまった以上、芝山は麻美に会わなければ
ならなかった。
麻美の口から「会いたかった」という言葉がスパークして見えたあの夜、芝山
は漠然と目に見えぬ力によって動かされている自分を感じたはずだった。
桜の満開の木の下で小さな息子の手をにぎって佇む麻美の姿が浮かんできた。
絹のようになめらかな風が母と息子にからまり、そこだけが桜の風景に見えた。
それだけがリアリティだった。
芝山は急斜面を転がる石になった。頑なためらいが摩擦を蹴散らし、ただの石
ころになって転がった。麻美にメールを送った。
「桜が咲いた。桜が散る前に会おう。晶くんといっしょに。どこへでも迎えに
行く」
果たして、十時間後、麻美から返事が届いた。
「桜、見たいです。どこへでも連れてってください」
その一行が目に飛び込んだ瞬間、芝山は狂喜した。たった一行を書くためだけ
に、麻美は何日も沈黙を守っていたのかもしれない。そうに違いない。芝山は
自分の気持ちが通じていたことに納得して、新たな喜びを発見した。
メールには麻美の携帯電話の番号が記されてあったので、自分の携帯電話にそ
の番号を登録した。
桜は散らない。おれたちが会うまでは桜が散ることはないだろう。
大急ぎでカレンダーの日付を目で追った。この際、原稿の締め切りは後回しに
して、花見を優先させよう。
「三日後の金曜日。鎌倉へいこう。返事を待つ」
芝山は急いでメールを送信した。
ふと、一年前の桜の季節を思い出した。
美佐子との離婚が決まり、彼女の引っ越しの準備を手伝っているころだった。
「祐輔さん、あっと驚くような小説を書いてね。ベストセラーになるのを期待
しているわ。正直いって、結婚してからというもの、わたしはあなたの小説を
ちゃんと読んでいなかったような気がするのよね。こういうの、悪妻っていう
のかしら。でも、祐輔さんにとっては、良き妻でも悪しき妻でもどっちでもい
いのよ、きっと。結婚に向かないのかしら。そういうわたしも同類かな」
あっけらかんとした物言いに、芝山は苦笑した。
「結婚に向き、不向きってあるのかな。相対的なものだから、まあ、きみが誰
かと結婚したら、おれたちの結婚よりは何倍も長続きするんじゃないのかな。
っていう言い方は変か。老夫婦で孫の結婚式に出るっていうのも悪くないよ」
「いい加減なこと言って。でもそのとき、あなたはどこで何をしているのかし
らね。案外、孫を溺愛する好々爺になっていたりしてね。でも、それはちょっ
とミステリーね」
離婚届を出したばかりの二人の会話が弾むというのもおかしなものだった。
美佐子の持ち物が収まったダンボール箱をリビングの一角に積み上げていく作
業をしながら、芝山は決定的な別れの原因というものはどこを探してもないよ
うに思えた。それでは、どうして別れるのかと問われれば、どうして結婚した
のだろうか、という疑問にぶつかる。互いに憎しみ合ったわけでもなく、好き
な相手ができたわけでもない。きびきびと動く美佐子の後ろ姿に視線を向ける
と、元妻の顔が振り向いた。芝山の顔を見て彼女は笑った。いい表情だった。
だから、結婚したのだろう。
美佐子がマンションを引っ越していったあと、桜吹雪が舞い、雨が降り、何の
痕跡も残さずに桜の季節は終わりを告げたのだった。
芝山は麻美からの返事を心待ちにして、再び原稿を書き始めた。
「金曜日は鎌倉だ。桜は満開だ」
頭の中で呪文のように反芻しながら、キーボードを打つ十本の指が加速度的に
強いリズムを繰り出していた。
アメリカの片岡真貴子が帰国したと知らせてきたのはそんな夜だった。
「桜が開花したわよ。鎌倉に行きたいわ。案内してね」
(つづく)