rensai画像 (16)

「芝山さん、例の書き下ろしの新しい梗概を読みましたよ。ミステリー仕立て
で面白い。ぼくはあれで十分いけると思っているんですが、ちょっとね、ここ
にきて来年の春に出そうという話が急きょ棚上げになってしまったんです。こ
ちらの都合で申し訳ないけど、延期ってことで、了解してほしんですよ」
 S出版社の大野昌男から書き下ろし長編の件で「早急に会いたい。できれば、
明日」と電話で言ってきたのは、水曜日の遅い時間だった。すでにメールで送
ってあった長編の梗概についても「受け取りました。感想は後ほど書きます」
という返事がきただけで、その後、なんの音沙汰もなかったが、芝山はほかの
原稿と並行させて新しい長編に取りかかっていたところである。
 S出版社の諸事情で多少の延期ということならば、電話一本ですむ話だった。
わざわざ芝山を呼び出したということは、今後のS出版社とのつきあいにも関
わる重大な問題があるように思われた。しかし、芝山は顔色ひとつ変えずに、
「それは仕方ないですね。でも、ぼくのほうは10月までには書き上げる予定で
います。刊行は来年のいつごろになりますか?」
「いや、それがね、今の段階ではなんともお答えのしようがないんです。うち
も小説全般の売り上げが低迷しているので、販売のほうともいろいろもめてい
るんですよ。文庫も見直しが必要だっていうんで、三年を経過して全く動かな
いものはすべて絶版という方向ですしね」
「どこも同じなのでしょうね」
「いや、そうじゃない。急成長している出版社もあります。まあ、小説じゃな
くても五十万、百万なんていうベストセラーを出して注目されたあと、今度は
無名の新人の小説や大御所の作家のエッセイ集を出したりと、いろんな戦術を
使ってくる。ゲリラ的ではあるけど、まあ、本は売れればいい話でね。そのへ
ん、うちなんかは老舗だから頭が固い。体質改善しなきゃならんのですが、ど
うも上の方が頑固で困ります」
 大野の話は愚痴である。愚痴を言い始めたら止まらなくなるのがこの男の癖
だった。芝山は書き下ろし長編を刊行するのかどうか、それを明確にしてほし
かった。ほかの原稿との兼ねあいもあり、棚上げ状態では、あまりにもリスク
が大きい。
「S出版社のような老舗から本を出せるというのはひとつのステータスなので、
デビュー当時からお世話になっているぼくとしては感謝しています」
「まあ、芝山さんの本は他社を見ても売れているほうですが、それでも一時の
勢いはなくなった。そして、うちもばか売れする本が出なくなってしまった。
だから、慎重にならざるを得ない。新しい書き手を発掘するのもわれわれ出版
業界の使命ですからね」
 大野の表情にはくだけた作り笑いが浮かんでいて、芝山はいやな気持ちにさ
せられた。
「ぼくも売れる本を書きますよ。長編には心血を注ぐつもりです。予定どおり
書き進めていきますので、発行日が決まったら教えてください」
 芝山の乾いた声だった。大野は火をつけたばかりの煙草をもみ消して、芝山
に真顔で向き直った。
「お約束できないんですよ。率直に言いまして、白紙の状態になったんです。
ぼくも芝山さんの書き下ろしについては部長にも販売のほうにも強く押してみ
たんですが、どうも最後まで意見が合わなくて。でも、またチャンスも巡って
くるでしょうから、芝山さんは書き続けてくださいよ。なんといっても人気作
家ですからね」
 皮肉な言い回しだった。芝山は長年つきあいのある編集者にそう言われては
返す言葉もなかった。おそらく大野が芝山に伝えるべきことはひとつだけだっ
たのであり、それをどう伝えるべきかを探りながら芝山に対していたのだろう。
芝山ははっきりとS出版社との縁の切れ目を感じた。
「そういうことなら仕方がないでしょうね。ぼくのほうはほかの出版社をあた
ってみます」
 そう返答するよりほかなかった。
「まあ、お互いにがんばりましょうよ」
 大野の言葉に軽くうなずきながら席を立った。
 ふと、コーヒールームの窓際のテーブル席に視線がいった。何度か会ったこ
とのある女性の編集者と向きあっている男の顔が目に飛び込んだ。それは作家
に転向した元ロックバンドのボーカルだった。

 紅色に輝く夕日が林立するビルの頭上に現れていた。
 くっきりとした丸い輪郭を描いたそれだけが、空を華やかなものにする。さ
らに時が刻まれると、薄暮の空が微妙に色づく。都心の小さな公園に八分咲き
の桜がその空を背景にして妖しい光を放っていた。
 S出版社を出た芝山はふと足を止めて、限りなく白に近いピンクの桜を見上
げた。ゆるやかな宵の風を受けてかすかにふるえる無数の小花。それらが奏で
る音が聞こえてくるようだった。
「吸い込まれていきそうだ」
 先ほど大野と交した会話の数々もどこかへ消えて、芝山は桜に見とれた。
 これまでの彼の人生にとって、桜は季節を象徴する日本の代表的な花である
という以外の何ものでもなかった。「おっ、きれいだな」という感想を持つぐ
らいのものだった。むしろ、桜が咲き始めると後戻りできない季節の中心にい
るように感じた。
 桜の開花が季節のリズムを刻み始める。そして、桜の開花を待っていたかの
ように、季節の花々が色とりどりに咲き始める。
 テレビニュースが伝える各地の桜の開花状況と天気予報は花見のための親切
な情報提供で、花粉状況の報告とよく似ている。晴天に輝く桜も雨にぬれそぼ
る桜も、桜は桜である。
 だいたい芝山は花見というのが苦手であった。グループで繰り出し、桜を愛
でるより、酒を飲んで騒ぐというシチュエーションが好きになれない。広告代
理店に勤めていたころ、屋形船で隅田川を下って墨堤の夜桜見物に参加したが、
確かに川の流れに沿って咲く桜は見事なものだった。誰もが「わあー、きれい
だ」と感嘆の声をあげたが、花見の主役は桜ではなく、目の前で繰り広げられ
る酒宴である。彼らは「きれいだ、きれいだ」と歓声を上げたが、黙って桜を
眺めていた芝山には格別な思いはなかった。

 その芝山が明日は鎌倉へ桜を見に行くのである。
 生まれて初めて自発的に「花見に行こう」などと誘った。黒川麻美とその息
子に会うのである。なぜ、三人で花見なのか。彼自身にもよくわからなかった。
 芝山は午前九時に銀座まで二人を車で迎えに行くことになっている。最初、
麻美と交した電話では、芝山が麻美の住む西葛西まで迎えに行くと言ったのだ
が、麻美はそれはたいへんだから便利な場所まで出ていくというので、銀座か
ら高速を利用することにして、四丁目の交差点にある交番の前ということにな
った。どこもかしこも花見真っ盛りの金曜日。道路状況はかなりの混雑が予想
されたが、それでも昼前には鎌倉に着くはずである。
 ふと、片岡真貴子のことを思い出した。
「桜を見に行こう」と電話で誘われたとき、すっかり忘れていたことに気づい
てあわてた。
「申し訳ない。急に仕事の打ち合わせが入ったんだ」
 咄嗟に嘘が飛び出したわけではないが、一瞬、芝山は軽い目眩を覚え、彼自
身が沈黙のベールに被われた。
 ところが、片岡真貴子のほうはあっさりとしたもので、
「なんだ、仕事ならしょうがないわね。わたし、明日は出版社の人と会う予定
だし、土日は夫の用事で京都に行かなくちゃいけないのよ。金曜日あたり、鎌
倉をぶらぶらしてくるわね。でも、アメリカに戻るまで1回ぐらい会いましょ
うよ」
 電話を切ったあと、芝山はなぜ、本当のことがいえなかったのかと、真貴子
に対して後ろめたさを感じた。しかし、時間が立つうちにそれも忘れてしまっ
ていたが、あらためて自分の対応のまずさを反省した。
 芝山の心を見透かすように、見上げた満開の桜はさらに妖しく輝いていた。
                              (つづく)

(1)  (2)  (3)  (4)  (5)  (6)  (7)  (8)  (9)  (10)  (11)  (12)  (13)  (14)

(15)  (16)  (17)  (18)  (19)  (20)  (21)  (22)

HOME/MENU