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「芝山さん、例の書き下ろしの新しい梗概を読みましたよ。ミステリー仕立て
で面白い。ぼくはあれで十分いけると思っているんですが、ちょっとね、ここ にきて来年の春に出そうという話が急きょ棚上げになってしまったんです。こ ちらの都合で申し訳ないけど、延期ってことで、了解してほしんですよ」 S出版社の大野昌男から書き下ろし長編の件で「早急に会いたい。できれば、 明日」と電話で言ってきたのは、水曜日の遅い時間だった。すでにメールで送 ってあった長編の梗概についても「受け取りました。感想は後ほど書きます」 という返事がきただけで、その後、なんの音沙汰もなかったが、芝山はほかの 原稿と並行させて新しい長編に取りかかっていたところである。 S出版社の諸事情で多少の延期ということならば、電話一本ですむ話だった。 わざわざ芝山を呼び出したということは、今後のS出版社とのつきあいにも関 わる重大な問題があるように思われた。しかし、芝山は顔色ひとつ変えずに、 「それは仕方ないですね。でも、ぼくのほうは10月までには書き上げる予定で います。刊行は来年のいつごろになりますか?」 「いや、それがね、今の段階ではなんともお答えのしようがないんです。うち も小説全般の売り上げが低迷しているので、販売のほうともいろいろもめてい るんですよ。文庫も見直しが必要だっていうんで、三年を経過して全く動かな いものはすべて絶版という方向ですしね」 「どこも同じなのでしょうね」 「いや、そうじゃない。急成長している出版社もあります。まあ、小説じゃな くても五十万、百万なんていうベストセラーを出して注目されたあと、今度は 無名の新人の小説や大御所の作家のエッセイ集を出したりと、いろんな戦術を 使ってくる。ゲリラ的ではあるけど、まあ、本は売れればいい話でね。そのへ ん、うちなんかは老舗だから頭が固い。体質改善しなきゃならんのですが、ど うも上の方が頑固で困ります」 大野の話は愚痴である。愚痴を言い始めたら止まらなくなるのがこの男の癖 だった。芝山は書き下ろし長編を刊行するのかどうか、それを明確にしてほし かった。ほかの原稿との兼ねあいもあり、棚上げ状態では、あまりにもリスク が大きい。 「S出版社のような老舗から本を出せるというのはひとつのステータスなので、 デビュー当時からお世話になっているぼくとしては感謝しています」 「まあ、芝山さんの本は他社を見ても売れているほうですが、それでも一時の 勢いはなくなった。そして、うちもばか売れする本が出なくなってしまった。 だから、慎重にならざるを得ない。新しい書き手を発掘するのもわれわれ出版 業界の使命ですからね」 大野の表情にはくだけた作り笑いが浮かんでいて、芝山はいやな気持ちにさ せられた。 「ぼくも売れる本を書きますよ。長編には心血を注ぐつもりです。予定どおり 書き進めていきますので、発行日が決まったら教えてください」 芝山の乾いた声だった。大野は火をつけたばかりの煙草をもみ消して、芝山 に真顔で向き直った。 「お約束できないんですよ。率直に言いまして、白紙の状態になったんです。 ぼくも芝山さんの書き下ろしについては部長にも販売のほうにも強く押してみ たんですが、どうも最後まで意見が合わなくて。でも、またチャンスも巡って くるでしょうから、芝山さんは書き続けてくださいよ。なんといっても人気作 家ですからね」 皮肉な言い回しだった。芝山は長年つきあいのある編集者にそう言われては 返す言葉もなかった。おそらく大野が芝山に伝えるべきことはひとつだけだっ たのであり、それをどう伝えるべきかを探りながら芝山に対していたのだろう。 芝山ははっきりとS出版社との縁の切れ目を感じた。 「そういうことなら仕方がないでしょうね。ぼくのほうはほかの出版社をあた ってみます」 そう返答するよりほかなかった。 「まあ、お互いにがんばりましょうよ」 大野の言葉に軽くうなずきながら席を立った。 ふと、コーヒールームの窓際のテーブル席に視線がいった。何度か会ったこ とのある女性の編集者と向きあっている男の顔が目に飛び込んだ。それは作家 に転向した元ロックバンドのボーカルだった。
紅色に輝く夕日が林立するビルの頭上に現れていた。
その芝山が明日は鎌倉へ桜を見に行くのである。
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