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 帰宅後、芝山は途中のスーパーで買ってきた弁当を食べてから、金曜日の朝
までにメールで送ると編集者に約束していた文芸誌の連載小説を書き始めた。
二時間もあれば仕上げられるはずだった。連載エッセイや単発の原稿のほうは
土日をかけて取り組めば、月曜日の朝の締め切りには間に合う。今夜は仕事が
終わったら、ゆっくり風呂につかり、6時起床を目指して早めに就寝するつも
りである。

 コンピューターの画面に集中しながら、芝山は先ほど大野と交した会話を思
い出している。
 今後のS出版社とのつきあいが暗礁に乗り上げてしまったという現実をつき
つけられて動揺はしたが、どこかでそんな予感はあった。色にたとえるならグ
レーな予感である。
 新宿の小料理屋で大野からミステリー作家への転向を勧められて強気で反論
したが、そのときに淡い予感が生じていたのだろう。本の売れ行きが落ちてい
ることとミステリー作家への転向が相関関係にあるとするのは、大野の短絡的
で安易な考え方である。
 編集者もいろいろだが、本が売れているときは作家と編集者の波長はあたか
も合っているかのように問題はないのだが、ひとたび本が売れなくなると、ま
ず編集者が作家の特徴を見直し、売れる要素を検討する。作家は作家で現状維
持でいこうか作風に変化を求めようか、それぞれにジレンマが生じる。路線変
更を肯定せずに両者が歩み寄りながら、次作に願いをこめて作品を生みだすこ
とはひとつの賭けでもあるのだろう。

 芝山は一人の女性作家のことを思い出した。
 広告代理店にいたころ、文芸誌の新人賞を四十歳で受賞した女性作家である。
掲載誌に少年の成長を描いた受賞作を読んたとき、芝山は子を持たない主婦の
感性と独特の乾いた文体に触発された。そのときの受賞者は女性二人で、もう
一人は二十代半ばの現役ファッションモデル。作品のほうは“都会的センスに
あふれた”などと形容された恋愛小説。
 本は同時に刊行され書店に並んだが、作風、容姿、年齢などすべてにおいて
対照的な二人の作家デビューは話題になり、特にファッションモデルのほうは
各方面から注目を集めて、雑誌やテレビなど露出度が大きかった。また、本も
よく売れた。主婦が書いた本は一万部を少し超えた程度だったが、モデルが書
いた恋愛小説は増刷を重ねて十万部に達し、ベストセラーとなった。
 芝山はモデルが書いた小説に魅かれるものはなく、二冊目にも何の関心もも
てなかったのに対して、主婦の第二作には度肝を抜かれた。受賞作とは打って
変わって、架空の国の王様の話である。「リア王」と「裸の王様」をミックス
したような孤独な王様が隣国と繰り返す奇想天外ないくさが描かれていた。現
代のどこかの国を想定しているとも思われたが、ある種のジャンルを逸脱した
いわゆるおとぎ話である。
 ユニークな発想をする人だなと感心していたら、今度は「メリー・ポピンズ」
のような魔法を使うばあさんを登場させ、彼女が縦横無尽に世界を飛びまわる
話を書いた。しかし、芝山が羨望の目を向けた二冊はほとんど売れず、その後、
彼女の本が書店に並ぶことはなく、どこにも彼女の名前を目にすることはなく
なってしまった。
 ところが、時を経て、芝山はひょんなことからその女性作家に会って会話を
交しているのである。

 芝山が作家デビューして三年が経ったころ、あるイラストレーターの個展の
オープニングパーティー会場に彼女はいた。広告代理店時代からの知りあいで
あるイラストレーターに挨拶をしに行くと、そのすぐそばに立っているのが彼
女だった。どこかで見かけた顔だと思って、記憶を辿ってみると、忘れられた
作家の顔だった。トレードマークのおかっぱ頭は健在だった。もし、髪型が変
っていたら、芝山も気がつかなかったであろう。
 その彼女が芝山に声をかけてきたのである。
「はじめまして、芝山さんですよね。あなたの作品はデビューしたときから、
楽しみにしているんですよ」
 芝山のほうこそ彼女の作品が好きだったので、おおいに驚いた。
「どうもありがとうございます。あの、ぼくもあなたの小説のファンでした。
三冊とも面白く読ませていただきました。いまは小説を書かれていらっしゃら
ないのですか?」
「そう、まったく書いていないのよ。旦那の小さな編集プロダクションでアシ
スタントをさせてもらっているんです」
 化粧っ気のない笑った顔に細かい皺が走った。
「なぜ、筆を折られたのですか?」
 ぶしつけな質問だとは思ったが、どうしても知りたかったのである。
「わたしの本は売れないからよ。新宿の書店で十冊売れたけど、神保町の書店
では五冊しか動かなかった、なんて、担当編集者が報告してくるのよ。売れな
い、売れないと訴えられても、わたしはどうすることもできないでしょう。そ
れで、とうとう編集者がもっと普通の小説を書いて下さいって注文してきたの
で、わたしは書けないって答えたのよね。それで、どうなったと思う?」
 面白そうに語る彼女に引き込まれて、芝山は「編集者はむくれた」と返すと、
「そう、まだ二十代の編集者がむくれた顔して編集長と相談してきますって言
って、その後、編集長とも会ったのだけれど、わたしは小説は難しいと率直な
感想を述べたら、少し休養しましょうってことで落ち着いたのね。それっきり
よ。ほかの出版社からはエッセイの注文が来たくらいだったわね」
「そういう経緯があったんですか。でも、また書くことがあるんじゃないです
か?」
 社交辞令としてではなくそう言うと、彼女は静かに笑って、
「小説は、ああ、わからん、です。いまは面白いと思う小説だけを読んでいた
いと思っています。そのほうが健康的ね」

 彼女と交した会話のひとつひとつが鮮明に甦ってきた。彼女のことを覚えて
いる読者はほとんどいないだろう。芝山も忘れてしまっていたが、いまなぜか
彼女のことをとても懐しく思い出すのである。
 書きたいことを書かないで作家といえるのだろうか。編集者に「もっと普通
の小説を書いてください」と言われて、はっきりと「書けない」と言って書く
ことをやめてしまった女性作家の潔さを、あらためて羨望するのである。
 芝山は大野のこともS出版社のことも振り払い、ひたすらキーを打ち続けた。

 午後九時、書き上げた原稿をメールで送ってからバスタブに湯をはっている
と、電話が鳴った。
「夜分おそくにすみません。黒川です」と麻美の声が届いてきた。
 一瞬、芝山は麻美に用事ができて鎌倉に行けなくなったという断りの電話か
と不安になったが、それはとりこし苦労というものだった。
「明日、よろしくお願いします。銀座の和光の前に晶と二人で立っています」
 心がゆるんだ。丁寧な物言いが愛おしいとも思った。
「ラッシュの時間帯にぶつかるんだよなあ。晶くんの腕が心配になっているよ」
「大丈夫です。晶は男の子でとても強いんですよ」
 麻美が真面目なので、芝山は吹き出しそうになった。
「そう、晶くんは強い男の子だったね。晶くんはもう寝たのかな」
「はい、八時には寝ました。芝山さんはまだお仕事ですか?」
「いまちょうど、原稿を送ったところで、ぼくもこれから風呂に入って早めに
寝ますよ」
「明日、楽しみにしています」
「ぼくも同じです。明日、九時、銀座和光の前にきみたちを見つけるよ」
                              (つづく)

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