rensai画像 (18)

 目覚まし時計が時刻を知らせるより早く、芝山は目を覚ました。昨夜はベッ
ドに入ってから五分とかからず眠りの底につき、夢をみることもなく熟睡する
ことができた。
 ベランダのカーテンを引いて戸を開けると、おだやかな空に一日を祝福する
ような陽がほほ笑み、やわらかく乾いた風が心地よい。夜明けともに就寝し、
昼近くに起床するといった日々が続いていたため、早い朝の目覚めは芝山の気
分を爽快にさせた。
 熱めのシャワーを浴びたあとバスローブを引っかけて、寝室のクローゼット
を開け、すき間なく掛けられた洋服の中から何を着ていくべきか少し悩んでか
ら、手にとったのは綿素材のベージュのジャケットとパンツ、それに合わせて
モスグリーンのハイネックの綿セーターをチェストから選んだ。
 芝山はテレビニュースを見ながら、トーストとコーヒー、それにいちごを加
えた簡単な朝食をとってから、手早く後かたづけをする。
 仕事部屋のコンピューターを起動している間に一眼レフのカメラや小型のス
ケッチブッグなどをショルダーバッグに詰め込み、芝山はジャケットを着た。
 受信メールをチェックすると、十数件のメールの中に大野のメールが届いて
いた。中身を開いてみると、だらだらと長い文章が続いている。時間がないの
で、帰宅してから読むことにした。ほかにも急いで返事をするようなメールは
なく、芝山はコンピューターを終了させた。

 時計が七時半をまわったところで、芝山はマンション地下の駐車場に向う。
ボディカラーはグラファイトグリーン、排気量四〇〇〇の外国車とつきあい始
めて丸四年になる。結婚する前は妻だった美佐子をはじめ何人かの女を助手席
に乗せて走ったが、美佐子といっしょになってからは彼女も車を購入したので、
そのころから車は芝山の分身となった。最後に助手席に乗った女はどこかの出
版社の編集者で、夜遅くまでかかった打ち合わせのあと、自宅近くまで送った
くらいである。
 イグニッション・キーをひねってエンジンをかける。低く柔らかなエンジン
音は快調である。ひんやりとしたステアリングの感触が手のひらに吸い付く。
 芝山は静かに車を出した。
 目黒通りから環七を走り、二四六へと出る。こんなに早い時間に車で外出す
ることはほとんどないので、車の量もこんなものかと思ったが、三軒茶屋が近
づいてくるにしたがって、スピードダウンする。
 九時前には駐車して、銀座和光に向おう。多少の渋滞があっても一時間以内
には到着するはずである。そう確信すると、芝山は一刻も早く二人の顔が見て
みたいと思うのである。

 渋谷を通過してそのまま二四六を走った。
 朝の青山の表情が芝山の目に飛び込んでくる。青山ブックセンターが入って
いるビルを通過した瞬間、麻美と再会した夜が甦り、それはずいぶん以前の出
来事のように思われた。これから会おうとしている麻美と、あの夜の麻美とは
別人のようでもある。さらに遡れば、一月に初めて麻美と会ったこともいまで
は遠い過去の思い出にも似た懐しさで、芝山をおだやかなものにした。
 わずか、三カ月足らずの時間の経過だが、それが芝山には何倍もの長さに感
じられた。
 冬から春への移行はとても大きな季節の変化である。北国では積もりに積も
った雪が確実に伸びていく陽光に溶かされ、水分をたっぷり含んだ土が顔をの
ぞかせる。やがて、それも春の風に吹かれて乾いていく。
 蟄居していた生き物たちが新しい気配を感じて活動を始めるように、芝山も
眠っていたような時間を目覚めさせているのである。
 六本木から溜池、虎ノ門を経由して新橋のガード下を抜ける。時刻は八時二
十分。銀座通りに入ってから明治屋の近くに路上パーキングを見つけ、車を止
める。芝山はコーヒーショップで時間をつぶそうかとも思ったが、銀座をぶら
ぶら歩くことにした。

 銀座通りは通勤途中の男女の姿が多かった。
 芝山にとって銀座は馴染みの深い街である。勤務していた広告代理店が築地
にあったので、地下鉄銀座線を利用して銀座で下車、ちょうど、いまの時間帯
に晴海通りを歩いて通っていたのである。仕事の打ち合わせも同僚と飲みに行
くのも銀座、退社後も時間のあるときには和光の裏の映画館に寄ったり、用事
がなくても銀座をぶらぶらしたものだった。
 あの時代を懐しく思い出すことはなかったが、当時、クライアントである自
動車会社の広報宣伝部の女となんとなくつきあっていた。一年たらずで女のほ
うから「あなたは何を考えているのかわからないから、つきあうのがたいへん」
と言ってきて、実にあっさりとした終わりを見た。
「何を考えているのかわからない」
 芝山は昔からそう言われてきた。特に女たちにである。芝山に言わせれば、
「わからなくて大いにけっこう。概ね、人間の考えていることなどわかるもの
か」となる。逆にいえば、わかってほしいという願いをそのままに男女のつき
あいが成立するのであれば、それにこしたことはない。考えていることをわか
ろうとする前に、見たまま、感じたまま、気が合えばそれで十分ではないかと
芝山は思っていた。
 いまではその女の顔はぼんやりとしか思い出せないのだが、魅力的な声だけ
は耳に残っている。女のほうが積極的で要求が多く、その分、不満も多かった。
人の目を引く外見に惚れたわけでもなかったが、芝山自身、つきあうのが億劫
になっていたころ、待っていたように女のほうからの三行半。
 当時から芝山は目立つ存在で女に人気があり、その後も食事に誘われたり、
誘ったりもしたが、一人の女と向きあうのが苦手といったところがあった。そ
して、学生時代と同様に「覚めている」「冷たい」などと言われてもたいして
気にならなかった。退職後、作家として注目を浴びた芝山のもとには、当時の
知りあいの女たちから「会いたいわ」という電話がきていたが、すでに会いた
いという気持ちは失せていたのである。

 九時十分前、芝山は和光の前に立って周囲を見回したが、麻美と晶の姿はな
かった。この場所は通勤ラッシュの時間帯でも人待ち顔でぶらぶらしている人
間が目につくのである。地下鉄に乗ってくると言っていた麻美は案内板に従っ
て地下から姿を現わすはずだった。背の高い芝山はさらに首を伸ばして、スク
ランブル交差点の向こう側に視線を向けたり、歩道を歩く人を目で追いながら
二人の姿を探した。
 芝山は背後に気配を感じると同時に「おはようございます」という声を聞い
た。振り向けば、麻美の照れたような表情があった。手をつながれた小さな晶
の顔が芝山の目に飛び込む。芝山を見上げる印象的な目元、口元が麻美にそっ
くっくりである。
「やっと、会えたなあ」
 芝山の実感である。中腰になって、晶の顔をのぞきながら「初めまして、晶
くん。芝山です」と声をかけると、晶は恥ずかしそうにうなずく。
「晶は芝山さんに会えるのをとても楽しみにしていたんです」
 麻美の言葉に芝山はわけのわからない衝動に突き動かされ、胸の奥に澄んだ
鈴の音を聞いたような気がしたのである。
「ぼくもね、楽しみにしてんだよ。晶くん」
 小さな晶の顔がパッと輝いた。笑っているのだ。芝山はうれしいと思った。
「じゃあ、車を止めてあるところまで少し歩くけど、行こうか」
 晶を真ん中にして三人はゆっくりと歩き出した。       (つづく)

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