rensai画像 (19)

「鎌倉は中学時代に一度行ったきりなので、とても楽しみです」
 電話でそう言っていた麻美と晶を乗せて、車はひたすら首都高速を走る。
 芝山が鎌倉に行くのは正月以来のことである。北鎌倉には十年前から彼の両
親が住んでいるが、最近はあまり顔を出さなくなってきている。美佐子との離
婚後はときどき訪ねていたのだが、そのうち億劫になり、自然と足が遠のいた。
 六十五歳になる父親はいまも現役で、勤務先のある丸の内まで元気に電車通
勤をしているが、気が向けば自分で車を運転して出勤するという元気ぶりであ
る。
 母親のほうも週一回は用事をつくって東京に出てくるのだが、息子のマンシ
ョンを訪ねることも電話をかけることもない。たまに母親は思い出したように
「元気なの?」と電話をかけてきて、「ああ、元気だよ」と応え、ほんの四、
五分の会話で済んでしまうのである。父親にいたっては、あらためて電話で話
すこともなく、昔と変らぬ淡々とした親子関係にある。
 芝山と弟との関係も似たようなものだった。互いに都内に住んでいながら、
年々会う回数が少なくなっているのである。

 後部座席に座る母子、芝山がバックミラーに確認できるのは麻美だけで、運
転席の後ろには小さな晶がおとなしく座っている。助手席は相変わらず空いた
ままである。
 車内の前と後ろで交わす会話というのは、会話として成立しないような奇妙
な違和感がある。相手の顔に向きあうことなく言葉を受け、言葉を返す。一応、
キャッチボールにはなっているが、言葉だけが宙に浮いてしまうようで安定感
に欠く。
 バックミラー越しに麻美の顔を確認しながら「春休みはいつまでですか?」
と妙にあらたまった調子で声を掛けてみると、なんだか運転手みたいだなと照
れてしまう芝山である。
「来週いっぱいなんですけど、入園式の準備があるので後半は勤務することに
なっています。芝山さんのほうは相変らずお忙しいのでしょう? 例の書き下
ろしの長編は進んでいますか?」
「ペンディングになってしまいました。でも、いくつかの出版社には当たって
みますけどね。ぼくとしてはどうしても書かずにはいられないし・・・」
 少しの沈黙が生じたあとから、「楽しみにしています」と麻美の弾んだ声が
芝山の耳に届いた。
「書き上げたら、真っ先に黒川さんに読んでもらおうかな。そして、感想を聞
かせてせてほしいな」
「あの、それは規則違反でしょう? とても読みたいですけど、本が出る前に
わたしのような読者が読んではいけないですよね」
 真剣で心配そうな麻美の声である。バックミラーをちらっと見て、芝山の顔
がほころぶ。
「そんなことないですよ。作家のなかには編集者よりも先に奥さんに読ませて
書き直したりする人もいるらしいですからね」
 再び、小さな沈黙が訪れたが、それをかき消すように、芝山は「晶くんはい
ま四歳なんだってね。お誕生日はいつなのかな」とバックミラーをぞいて声を
かけるが、そこに晶の顔は見えない。
「ろくがつみっか」
 小さな声が返ってくる。芝山は振り向いて顔を見てみたいと思ったが、運転
中とあってはどうにもならない。
「ぼくは五月三十日が誕生日。麻美さんの誕生日はいつ?」
 芝山の口から出たのは「黒川さん」ではなく、「麻美さん」だった。芝山が
麻美のことを考えるときはいつも「麻美」で始まっていたが、このとき初めて
無意識のうちに「麻美さん」と呼んだ。
「十月四日で二十六歳になります」
 麻美は判で押したように正確な年齢を伝える。ちょうど十歳ちがうのだなと
思う一方で、晶を産んだのが二十歳だったという事実に向き合うと、さまざま
な疑問がわいてくる芝山である。しかし、晶の父親の不在が自然であるように、
麻美と晶は寄り添ってここにいる。

 車は横浜ベイブリッジを渡り、高速湾岸線を走り抜けて狩場ICから横浜横
須賀道路に出たが、やはり、花見のピークである金曜日を象徴するような車の
混みようである。どうにか、朝日奈ICを降りて、金沢街道へ。
 鎌倉のメインストリート、そして若宮大路は観光客であふれていた。鶴岡八
幡宮の二の鳥居から三の鳥居までの全長五百メートルの参道に、満開の桜が人
々の歓声に応えるかのように、堂々と咲き誇っている。
「鶴岡八幡宮の参道を歩いてみよう。桜のトンネルみたいなんだよね。それか
ら北鎌倉に行くのがいいよね。さて、どこに駐車しようかな」
 麻美や晶に問いかけるでもなく言うと、
「わたしはよくわからないので、芝山さんにおまかせします。晶、桜が見える
でしょう? とてもきれいね。それにしてもすごい人ですね」
 時期が悪かった。観光シーズンの花見日和である。これでは芝山が案内した
いと思っていたいくつかの小さな古寺でさえ、たいへんなにぎわいであること
が想像できた。
 芝山はパーキングエリアを探して車を走らせながら、ふと北鎌倉の実家の前
にでも駐車して、あとは、タクシーで移動したほうがいいのではないかと思い、
メインストリートから駅裏に出た。
「この調子では駐車するのに時間がかかるので、これからぼくの実家がある北
鎌倉に向いますね。とりあえず家の前に車を止めて、そこからタクシーを拾い
ますけど、いいですか?」
「芝山さんのご実家、北鎌倉だったんですか。知らなかったです。わたしはか
まいませんけれど、なんだか面倒をおかけするようで申し訳ないです」
「いや、とんでもないですよ。ぼくのほうも段取りが悪くてすみません。もう
少し計画的に事を運べばよかったんですよね。甘かったなあ。北鎌倉まではす
ぐですから、もう少し待ってください。晶くん、トイレは大丈夫かな」
「うん、だいじょうぶ」
 晶の元気な声に芝山は安堵する。
 麻美は晶に窓の外に広がる風景についていろいろと話かける。
「あら、ここにも桜がいっぱい。ほら、大きな蝶々が飛んでいるわよ」
 それに反応する晶の声が聞こえてくる。瞬間、芝山はふわっとした甘い感覚
に包まれた。
 この母と子がともにあった時間の深さを測ることはできないが、小さな世界
に大きく広がるどこにもない色をみつけたような気がした。(つづく)

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