rensai画像 (20)

 車は鎌倉街道の北鎌倉駅をこえて左折し、さらに右折した角地に建つ芝山の
実家の前で停止する。
 石塀に囲まれた瀟洒な二階建ての家は、北鎌倉の緑あふれる街並みに調和し
て映え、美しいたたずまいを見せている。
 芝山はエンジンを切って、「家に母親がいるかもしれないから、ちょっと声
をかけてくるかな。あっ、晶くん、オシッコしたいのじゃないかな。トイレに
行こうか?」。後ろを振り向くと、晶は「・・・すこし、したい」と恥ずかし
そうな顔を芝山に向ける。
 麻美があわてて「晶、大丈夫? 芝山さん、すみません。ご迷惑をおかけし
て」と言ってドアを開けかけた。
「とんでもない。ぼくのほうこそ不手際で、なかなか花見に到達できなくて。
いそごう」

 芝山は玄関のチャイムを一度鳴らしてから鍵を開けて中へ入ると、母の紀子
が姿を現わした。白いブラウスにベージュのカーディガンを羽織った普段着姿
で、出かける様子はない。ちょうど今年で還暦を迎える紀子だが、芝山によく
似た顔立ちで、実年齢よりも若く見える。
「まあ、祐輔じゃない、突然、どうかしたの?」
「ごめん、ちょっとトイレを借りるからね」
「トイレ? あら、そちら、お客さま?」
 芝山の後ろに立っている二人の来訪者を見て、紀子は目を丸くした。
「そう、お客さまだよ。さあ、晶くん、トイレに行こうね。麻美さん、廊下の
左のドアだよ」
 麻美は晶の手を引っ張って玄関に入り、紀子に一礼した。
「黒川と申します。きょうは芝山さんに案内していただいて、お花見にやって
参りました」
「麻美さん、説明はいいから、早く晶くんをトイレに連れてって」
 芝山がうながすと、麻美は靴を脱いであがりかまちに立ち「突然で申し訳あ
りません。トイレ、お借りします」ともじもじしている晶の靴を脱がせた。
「お子さんなの? かわいい坊やね。さあ、トイレはこっちよ」
 何が何だかわからないまま紀子はスリッパをパタパタさせて二人を案内する。

 芝山がほっとした気持ちで玄関に突っ立っていると、
「祐輔、そこで何しているの。上がったらいいでしょう?」
 紀子は怪訝な表情で芝山を見た。
「どこも人と車でいっぱいだから、うちの前に車を止めさせてもらおうと思っ
てね」
「今夜、お父さんは箱根に行っていないから、車庫に入れておいも大丈夫よ。
それより、あなたがた、お昼はまだなんでしょう? わたしもこれからだから、
おうどんでも茹でるわよ」
「いや、食事は建長寺の桜を見てから、近くの洋食屋に行くよ」
「あら、そうなの。ところで、あのかわいい親子は小説の取材か何かなの?」
 芝山は母の口から取材という言葉が飛び出したのでつい笑いそうになったが、
そう取られても不思議ではないシチュエーションである。
「取材ではないよ。いっしょに花見をしようとおれが誘ったんだ」
「知り合いなのね。ちょっと祐輔、玄関で立ち話もないでしょうから、とにか
く上がんなさいよ。お茶でも飲んで一息入れたら?」
 あきらかに紀子が麻美と晶に興味を抱いているのを感じた芝山だが、言われ
るままに靴を脱いでいると、二人がトイレから戻ってきた。
「坊や、すっきりした? さあ、こっちにいらっしゃいな。ほら、あなたも」
 紀子は妙に浮かれた様子で麻美と晶に手招きをして、リビングルームのドア
の向こう側に消えた。芝山が麻美を見やると、彼女の少し照れたような表情の
中に困惑の色が浮かんでいた。
「迷惑でなかったら、ちょっとだけ、休憩してから花見に行こう」
「そんな、迷惑だなんて。こちらこそ、図々しくてすみません」
 麻美が何かを訴えるような目で芝山を見つめる。双方のからんだ視線はすぐ
にほつれ、なし崩しの笑いが生じた。
「麻美さん、図々しいなんてことは決してないよ。これは、どこにでもあるな
りゆきなんだからね。一休みしたら、建長寺の桜を見に行きましょう」
 そう言ったあとから、芝山は一瞬、このおれは、どこのおれだ?と奇妙な感
覚に囚われた。

 麻美と晶の背中を押すようにして芝山は二人をリビングルームに案内した。
十六畳はある広々としたスペースの中央に皮張りの三人掛けと二人掛けのソフ
ァ、それに大きなテーブルが一台、コーナーにはテレビとオーディオ・セット
やサイドボードが配されている。リビングの隣はサンルームになっており、そ
こには紀子の好きな観葉植物の鉢植えがいくつも並んでいた。
「いらっしゃい。ほら、そこのソファに三人並んで座るとちょうどいいわよ。
坊や・・・あら、お名前はアキラちゃんっていったかしら? いくつなの?」
 紀子はいつになくはしゃいだ声を出して、晶に声を掛ける。
「ぼく、くろかわあきら。しがつむいかで、五さいになるの」
 ことのほか、物おじせずに自己紹介をすませた晶に芝山は逞しさを感じた。
 麻美と晶は並んでソファに腰掛け、芝山は晶の隣に座った。
「あきらちゃん・・・五歳なのね。あきらってどういう字を書くのかしら」
「水晶の晶という字です」
 麻美が言い添えると、「あら、与謝野晶子の晶の字ね。いいお名前だわ。そ
れで、あなたはあさみさんだったかしら?」
「はい、麻美と申します。布の麻に美しいと書きます」
「黒川麻美さんね。きれいなお名前。それにしてもあなたがたはそっくりな親
子だわ。将来、晶ちゃんはハンサムになるでしょうね。晶ちゃんはジュースが
いいわね。それで、麻美さんと祐輔はコーヒーにする? それとも日本茶がい
いかしら」
 芝山が「おれ、日本茶がいいな。麻美さんは?」と顔を向けると、「わたし
も日本茶をいただきます」と麻美が続く。
 ダイニングで準備をする紀子が「ねえ、建長寺の桜、わたしも行こうかしら。
こんなに近くなのに、今年はまだ行ってないのよ」と弾んだ声を出してくる。
 やれやれ、いったい、おふくろはどうなっているんだろうか。芝山が即答で
きずにいると、あろうことか麻美が「ぜひ、お母さんもごいっしょにお花見を
しましょう」などと返すので、不思議な感覚に見舞われた。
「あ、やっぱり、わたしはよしとくわ。三人で見てらっしゃい。ねえ、祐輔、
お花見が終わったら、うちで夕食を食べていかない? 今夜はおとうさんもい
ないし、麻美さんと晶ちゃん、ここに泊まってもらってもいいのよ」
 紀子の少しばかり興奮した声がリビングに響いた。芝山は呆気にとられ、ち
らっと麻美の横顔に視線を走らせると、麻美は思いつめたような表情で一点を
見つめている。
 一瞬の沈黙をかき消すように、
「おふくろの思いつきは歓迎だけど、こちらにもそれぞれ事情があるのだから、
無理なことは言わないこと」
 芝山の言葉が宙に浮いてしまうほど、紀子は我関せずといった様子で「いい
思いつきでしょう? 今夜、何つくろうかしらね」などと言いながら、茶碗が
のった盆を運んでくるのである。
「さあ、どうぞ召し上がれ。晶ちゃんの好きな食べ物は何かしら?」
 並ぶ三人の向かい側に腰をおろした紀子は晶の顔をのぞきこむ。
「ぼく、グラタンがすき。それと、マグロもすき」
 こんなに大きかったのかと思うような晶の声を聴いた芝山はここでも戸惑い
を感じ、自分の身体さえも宙に浮いているような感覚にとらわれた。
「グラタンとマグロね。じゃあ、今夜の夕食はそれでいい?」
「うん」と大きくうなずく晶。
 芝山はこのとき初めて母が大きな勘違いをしているのではないかということ
に気がついた。相変わらず貝のように押し黙っている麻美も気になったが、紀
子の意外性に度肝を抜かれてしまった芝山である。
 さらに拍車をかけるように紀子が
「あなたがた、そうやって並んでいるとまるで家族みたいね」などと言うのを
聴いて、芝山は軽妙な調子で切り返せない自分をはがゆいと思った。その一方
で、いったい自分たちはここで何をしているのだろうかと、遮断された時間の
中に埋没していくのを感じたのである。

「とにかくお茶を飲んだら、建長寺に行こうね。それから、食事をしよう。鎌
倉をぶらぶらしてから、東京に帰ろう。ちゃんと、二人を家まで送り届けるか
ら、大丈夫。ここに泊まったら、黒川さんのご両親も心配するだろう」
 芝山はそこまで一気に言ったあと、ふと後悔にも似た寂しい感情が沸き起こ
ってくるのを必死で抑えた。
 紀子の目の前に小さな晶をはさんで並んでいる芝山と麻美。この三人は他者
から見ると、親子に見えるのかもしれない。紀子も勘違いしたのかもしれない。
 どんな言葉も発することなく、あるがままの姿をさらけだしていることに意
味があるのだとしたら、芝山の紋切り型の表現は自分自身にさえ苦痛を与える
ものになる。
「ぼく、グラタンがすき。それとマグロもすき」
 晶の澄んだ声を否定したのではないだろうか。芝山は重たい気分のまま、正
面に座っている紀子の表情をうかがうと、母は穏やかな表情で息子を見つめて
いた。
「そうね、ご迷惑ね。でも、また機会があったら三人で遊びにきてよ。ね、晶
ちゃん。さあ、お花見に行ってらっしゃい」
 紀子の声に送りだされ、三人はリビングを出た。麻美が「突然、お邪魔して
申し訳ありませんでした。寄せていただいて、とても助かりました」とていね
いにおじぎをすれば、「また、いらっしゃってね」と紀子が返す。
 家の外に出ると、眩しすぎる陽光が三人を照らした。
 麻美に手を引かれて歩いていた晶が突然、その手をふりほどき、力なく歩く
芝山に寄り添ってきて、小さな右手を大きな左手にすーっと重ねてきた。芝山
の手に晶の手がおさまった。
 芝山はその温もりをしっかりと握りしめた。         (つづく)

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