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 満開の桜は淡い夢だったのか。
 厳かな色彩を際立たせていた花びらが風に散ってしまったいま、刹那の輪郭
だけが日々の暮らしの中にひっそりと息づいている。
 鎌倉の花見から三週間が経過していた。
それが長いのか短いのか、芝山には判断つきかねたが、予想外に日常の壁が大
きく立ちはだかり、それらの対応に追われる日々の連続であった。

 芝山はS出版社の大野から届いていた長いメールに気分を害したのを発端に、
仕事上の細かいトラブルが生じて、それまでにない苦渋を味わった。
 小説を連載している文芸誌が九月号をもって休刊するという急な知らせが届
いた。「十二月号の十五回で完結する予定を繰り上げ、残す六回分を三回で仕
上げてほしい」という編集者の意向だったが、芝山は渋った。連載十五回とい
う長編小説の構成上、この時期に頁数を増やさずに三回でまとめるということ
に合点がいかなかったためである。いずれ単行本化されるのならば、休刊のた
めの連載中止ということで、続きは加筆して一冊にまとめてもらうほうが理に
かなっているのではないかと意見したが、「事実上の廃刊ということなので、
単行本についてはすぐには予定が立たないので、最終号で連載を完結させてほ
しい」と編集者が頼み込んできたため、承諾せざるを得なかった。
 さらに月刊誌の連載エッセイをはじめとする何本かのレギュラーの仕事を失
った。これまでの経緯からすると、終わりがあれば別の始まりがあり、書き下
ろし長編に取り組んでいるときなどは他の依頼を断るほどの余裕で読み切り小
説やエッセイをこなすなど、忙しく循環していたのだが、気がつけば、新しい
原稿依頼といえば、十月に創刊される女性誌だけである。

 例年なら大型連休前は原稿の締め切りに追われていたものだが、芝山のもと
には気落ちするような電話連絡はあっても、原稿依頼は皆無に等しかった。こ
こは書き始めた長編小説にじっくり取り組めということなのか。芝山はぼんや
りと思うのだが、それとてもS出版社の手を離れてしまった以上、早い時期に
ほかの出版社をあたってみなければならなかった。
 締め切りに追われていたころの生活のリズムが一度大きく狂い始めると、芝
山はたびたび不整脈でも走るような感覚に襲われた。一方では、仕事が激減し
ても1、2年は生活に困るようなことはない、などと思うのである。

 麻美とは毎日のようにメールが取り交わされ、声が聞きたいと思えば気軽に
携帯電話をかけあうようになっていた。いずれも日常的なたわいのない話に終
止した。仕事に関することはいっさい麻美には伝えまいと意識すればするほど、
芝山は繰り返されるたわいのない話の鉾先が見えなくなって戸惑うことも度々
だが、麻美がメールで知らせてくれるどんな些細なことも、電話の向こう側か
ら飛び出してくる言葉の数々も心をなごませるリアリティであった。しかし、
そうした交流の底には「約束の時間」というものを成立させないための予防線
があるのではないだろうか。
 芝山は、麻美が楽しみだといっていた長編小説の話題にも触れようとはしな
い。実際、書けない状態だった。おそらく麻美も気がついているのだろう。気
がついていて余計なことは口に出すまいとしている様子が電話の向こう側から
も伝わってくる。メールは沈黙を感じさせないが、電話の場合は言葉を選んだ
り、探したりする一瞬の息遣いが重い沈黙に感じられることがあるからだ。そ
れでも、麻美から来るメールも電話の声も芝山の日常世界にうるおいをもたら
した。しかし、そのうるおいは甘美な逃避という毒にも似て、ゆっくりと身体
にまわっているようでもあった。

 うたた寝をする。ふと目が覚めた瞬間、芝山は自分がどこにいるのかわから
なくなる。いったい、ここはどこなのだろうか。現実感の喪失。
 まぶたを閉じていると、麻美と晶の三人で花見に行ったときのことが思い出
された。建長寺の石畳の参道に咲き乱れる桜のトンネルに三人は見とれた。
「ほんとに、桜、きれいね」と感嘆する麻美がいて、「サクラ、サクラ、サク
ラ」と覚えたての言葉を連呼する晶がいた。風に舞う桜吹雪の中を歩いている
と、芝山はふと萩原朔太郎の『桜』という詩の一節を思い出したのだった。
   われも桜の木の下に立ちてみたれども
   わがこころをつめたくして
   花びらの散りておつるにも
   涙こぼるるのみ。
 麻美と晶の喜ぶ様子にはずんだ心の裡で詩の一節をつぶやく自分にとまどっ
たが、それも一瞬のことで三人で歩いているうちに忘れてしまっていた。

 鎌倉に行って以来、麻美と会わないことの不自然さに、実際は忸怩たるもの
があった。花見が一幕目の終わりとするなら、二幕目の始まりはいつになるの
だろうか。
 芝山は大きなため息をついてソファから起き上がる。読みかけの本が床に落
ちた。若者に人気のある元ミュージシャンの新刊だった。初めてふれる文体だ
が面白い。句読点の付け方、突飛な擬声語の使い方に新鮮なが響きがあった。
オーソドックスな文章とは一線を画するオフビートのパワーである。ストーリ
ーを追う以前に、繰り出される言葉のリズムに乗せられていく。そんな感じだ
った。
 薄暗くなった部屋に明かりを灯すと、雑然としたリビングルーム全体が空虚
に見えた。腹が減っていることに気がついてキッチンに向かうと電話が鳴った。
「芝山くん、いまいい?」
 片岡真貴子の大きな声が耳に届いた。
「いいよ。これからぼちぼち夕飯でも作ろうかと思っていたところさ。まだ、
東京にいるんだろう?」
 真貴子とは鎌倉に行った四日後に食事をして、彼女が出す本の話に終始した。
「あさって、向こうに帰るのよ。それよりきのうね、M出版の石川編集長と食
事したんだけど、あなたのことが話題になって、いろいろと心配していたわよ。
ねえ、仕事のほう減っているの?」
 真貴子と石川編集長がどういう話をしたのか、だいたいのところは想像でき
たが、たいして不快にもならなかった。
「あきらかに減っているよ。でも、これもまた流れなんだろうな」
「そんなこと言っていると、どんどん流されるのよ。芝山くんらしくないじゃ
ない。ほら、前に言っていた書き下ろしの長編小説は書いているんでしょう?」
 芝山は返答につまった。すでに書けない状態にある。
「もしもし、芝山くん。聞こえている?」
 真貴子の声を聞きながら、芝山は大学時代に戻ったような感覚にとらわれる。
「片岡、おれさ、ここんとこ書けなくなっている」
 どうして真貴子に向かってそんなことを言ってしまったのか、芝山にはわか
らなかった。ただ、言葉が飛び出して頭がふわりとした。拾いようのない言葉
が無惨にも空中分解してしまったのである。 (つづく)

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