rensai画像 (22)

 芝山は全身に痛みを感じて目が覚めた。ソファでうたた寝をしていたのである。
頭が重く、少しだけ寒気を感じた。立ち上がると、足元がふらついた。リビング
の壁時計を見ると、針は1時15分を指していた。芝山は寝ぼけた頭で記憶をたぐ
り寄せると、片岡真貴子と電話で会話を交わしたことを思い出してさらに気分が
重くなった。

「芝山くん、書けないときだってあるんじゃない? きっと、これまでだって、
書けなくなってしまったことがあったのだと思うわよ。大丈夫、あなたはクール
に対処できる人だから」
「この前も言ったけれど、おれは人が思っているほどクールでもドライでもない
って、最近、つくづく感じるよ。書いていた長編もS出版社から出す予定だった
んだけど、すっかりリストラされてしまったんだよ。だから、ほかを当たってみ
ようと思っていたんだけれどね、なぜか書けないのさ。書けないってことは、い
まは書くなってことなのかもしれない。作家もリストラされていくんだな」
 相手が真貴子だから、このように一気に言葉が出てくるものなのか。芝山は愚
痴っぽいなと思いつつも、次から次へと込み上げてくる感情の行き場をラインの
向こう側に求めていた。だれかに向かって不満や愚痴をこぼしたことのない芝山
にしては珍しいことだった。一瞬、沈黙があった。
「やだわ、芝山くんじゃないみたい。ねえ、気分転換のために、山でも海でもい
いから、東京から遠く離れてみたら?って提案するわ。生活に困るわけでもない
し、独身なんだから」
 集中的に小説を書くために海外にロングステイする作家、仕事の拠点を田舎に
移してしまった作家、温泉旅館などで缶詰めになる作家などさまざまである。こ
れまでの芝山には東京から離れて原稿を書こうなどという発想はなかったが、気
分転換もいいのではないかと考えてみた。
「そうだね。気分転換が必要なときなのかもしれない。スペインにでも行っての
んびりしてみようかな。でもなあ、東京から離れると逆に焦ってストレスを生む
ことにもなるかもしれない」
 真貴子の提案を肯定したあとから、すぐに否定的な言葉が顔をのぞかせた。
「焦りを生み出すストレス? ねえ、そこまで心配してどうするのよ。芝山くん
らしくないわ。それならそれで以前の生活に戻せばいいのよ。でも、生活スタイ
ルを変えて気分を一新させることって大きいと思うわ。わたしも本が出るまでは
行ったり来たりが多くなると思うけど、けっこう楽しみにしているの。芝山くん
も大丈夫だって。がんばってよ」
 目の前に新しいチャンスが広がり、意気揚々としている人間のパワーというも
のは弱気になっている心をかくも落ち込ませるものなのだろうか。「がんばって」
といわれて、がんばろうなどという気にはなれなかったが、真貴子には「がんば
れよ。楽しみにしているよ」などといってから電話を切った。

 そのときすでに八時を回っていたのだ。夕飯を作ろうという気持ちはとうに失
せ、芝山は冷蔵庫から缶ビールを取り出して一気に飲んだあと、所在なげにソフ
ァに腰をおろしてからごろんと横になった。背中に当たったクッションが邪魔だ
ったので、ぽーんと放り投げて天井を見上げた。
 自分はこのまま小説を書き続けることができるのだろうか。いや、自分に書き
たいという意志があるのだろうか。本当は書くことから逃げたいのではないだろ
うか。自問してみた。問いかけはいくらでも出てきたが、答えを引き出すことが
できなかった。ふと、麻美の声が聞きたいと思ったが、すぐにそれを打ち消した。
なぜか、麻美という女はこんなときに電話するような相手ではないような気がし
た。かといって、芝山は昔から落ち込んだときにだれかに電話するということは
ほとんどなかったので、真貴子との会話を思い出して、ひとり苦笑した。
 いろいろと考えているうちに眠りの縁をさまよい、そのまま記憶をなくしてし
まったのである。

 芝山は時間に取り残されたような感覚を蹴散らせると同時に、腹が減っている
ことに気がつき、何か食べようと思った。いや、その前にシャワーを浴びようと
バスルームに向かった。洗面台の鏡をのぞきこむと、髪の毛がボサボサで頬のそ
げ落ちた、くぼんだふたつの目が奇妙に目立つ男の顔があった。
 シャワーの湯は40度に設定してあったが、水を浴びているような感じだった
ので一気に45度まであげた。それでも皮膚になじまず、今度は50度の湯に設定
してみると、さすがに熱かった。
 シャワーを浴びること30分。髪を乾かしてから白のトレーナーと黒のコット
ンパンツに着替えると少しばかり気分もすっきりとした。
 パスタを茹でることにした。湯を沸かしているあいだに、ミートソースの缶を
戸棚に探したが見つからないので、代わりにツナ缶を開けた。冷蔵庫からラップ
に包んだたまねぎとピーマンを見つけて刻んだ。パスタは5分で茹であがる細め
のものを選び、沸騰する鍋にパラパラと入れた。
「いつのまにか、慣れたもんだよな、おれ」などとひとりごちた。結婚していた
ときから、妻の帰宅が遅くなれば原稿書きの合間に料理も作っていた芝山である。
 たまねぎとピーマンを炒めてから、茹であがったパスタとツナを加えて手早く
三種類の調味料で味を整えて皿に盛る。大盛りになった。食卓に運んでから野菜
がほしいと思い、トマトを縦に薄くスライスしてこれも皿に形よく盛り、気に入
っているイタリアのドレッシングとドライパセリをふりかけた。
 いざ食べるという段になって、夜更けの静けさに圧迫されそうになったので、
あわててCDデッキのスイッチを入れた。いきなりバド・パウエルの「クレオパト
ラの夢」が流れた。そうか、おれはこの一枚を昨日から聴いていたのだったな。
 芝山はあらためてピアノの旋律に懐かしさを覚え、パスタを食べはじめた。も
くもくと咀嚼しながら、麻美のことを思い出していた。午前3時になろうとして
いるこんな時間に起きているはずもなく、晶とともに深い眠りについていること
だろう。メールは送られてきているだろうか。明日こそ電話をして会う約束を取
り付けるべきなのだろう。もはや、会わないでいるのは不自然なことだった。

 芝山は食器を洗ってからコーヒーを煎れた。マグカップを手にして仕事部屋の
明かりをつけ、パソコンを起動させた。ふと、デスクの上で充電させているはず
の携帯電話がないのに気がついた。どこに置いたのだろうか、最後に使ったのは
いつだろうか。一歩も外に出ていなかった半日あまりの動線を辿った。仕事部屋
から寝室、リビング、キッチンと探してみたが見つからない。変だなと思いなが
ら再び仕事部屋に戻りデスクの周辺に目をやると、はたしてグレーの携帯電話は
サイドチェストに積み上げられた本の上に載っていた。そこに置いた記憶はなく、
不思議に思いながら見ると、着信ありとあった。履歴に黒川麻美の名前と時刻が
表示されている。9時14分。芝山が眠っていた時間だった。急かされるようにし
て、パソコンにメールが届いていないかと受信してみるとメールは数件あり、「い
いお天気でした」というタイトルが目に飛び込んできた。差出人に麻美の名前を
見つけてほっとした芝山はすぐにメールを開いた。

芝山祐輔さま
お忙しいことと思います。
さきほどお電話したのですがつながらず、またメールを書くことにしました。
特に用事があったわけでもないのですが、なんとなく携帯電話を持ったら、
指先が弾んでしまいました。
ここのところ、わたしは電話でもメールでも自分のことばかりを報告している
ようで、お仕事のご迷惑になっていないかと心配になりました。
新作に取り組んでいらっしゃる芝山さんは、わたしなどには想像もできないほど
の重圧の中で、骨身をけずりながら書き進められているのでしょう。
今度はどんな世界が展開されるのかしらと思うだけで、
読者としては期待がふくらみます。
以前に小説を書き上げたら、このわたしに読ませるとおっしゃっていましたが、
やはり書店に並ぶ日を心待ちにすることにします。
五月の連休には両親の希望で京都へ行くことになりました。
晶に京都は似合わない・・・ですが、なかなか旅行に行く機会がなかったので
両親は楽しみにしているようです。
晶はわけもわからず「キョートにいくんだ」となんだかうれしそうにしています。
芝山さん、お体に気をつけて、お仕事、がんばってください。
黒川麻美

 メールを読んだ芝山は麻美の真意が図りかねた。いつものメールの語り口とは
ちがう、親しみのわかない儀礼的なものを感じたのである。そして「がんばって
ください」とは片岡真貴子と同じではないかと気落ちした。以前の芝山なら、ま
た以前の麻美になら「がんばってください」といわれても意気に感じてうれしく
なったものだったが、いまの芝山にはそれは通じなかった。おれは、骨身をけず
って小説を書いているどころか、書けない状態にある。麻美には何も伝えていな
いので、何も見えていないのだ。いや、むしろ麻美は敏感に察していてこのよう
なメールを送ってきたのかもしれない。いずれにしても、真意はわからなかった
が、これは何かのシグナルなのではないだろうか。芝山はそう感じたのである。
                               (つづく)

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