rensai画像 (23)

 柔らかな光を感じてカーテンを引くと、夜のしじまを抜け出てきたオレンジ色
の太陽が悠然と輝いていた。芝山は窓を開けて空気を吸い込み、見慣れた朝の風
景を眺める。家々の屋根の隙間に見える細い路地に人の姿はなかったが、都会が
ざわめく前の生活の音が耳に届くようだった。
 芝山は久しぶりに公園を散歩しようとマンションの外へ出た。公園通りを渡っ
て園内に入ると、早朝のせいか通勤や通学途中の人たちの姿はほとんどなかった
が、ケヤキ並木を歩いていると、犬を散歩させる老夫婦やジョギング中の青年と
すれ違った。十メートルほど進んでから、ゆっくりと振り返ってみた。視界は一
瞬にしてトリミングされ、正確な遠近を生み出す。静かな風に乗って鳥の声が聞
こえた。絵の中に入り込んでしまったような感覚にとらわれ、芝山はしばし立ち
尽くす。踵を返し、ゆっくりとテニスコートを眺めながら歩き、子どもたちのた
めの小さな遊び場をひと回りしてから間道を通って駒沢通りへと抜けた。街路樹
のプラタナスの葉が瑞々しい。

 夜明け前に麻美からのメールを読んだあと、芝山は急かされるようにして返事
を書いた。「近いうちに会いましょう。連休前が無理なら京都から帰ってきてか
らでも。きょう、電話します」という簡単なものだった。ほかにも何通かメール
が届いていたので返事を送った。
 意外だったのは、二年ほど前に取材を受けた男性誌から、若い女優と銀座巡り
をするという記事に登場してもらえないかという依頼である。表紙も芝山と女優
のツーショットで飾るという。水面下では、肝心の小説のほうの依頼が途絶えて
いるというのに、このような取材が突如として飛び込んでくる。芝山祐輔の知名
度はそのような利用価値があった。
 銀座の有名店や穴場紹介のためにかり出されることに少しばかり不快感を覚え
た。だいたい芝山はグルメでもブランド指向でもなかったし、仮にこだわりの店
があったとしてもそれは個人生活の楽しみの一部であり、気に入ってもいない店
で作り笑いをして写真におさまったり、褒め言葉だけの感想が活字にされてしま
うような記事に登場するのはいまの芝山にとって気がすすまないことだった。
 芝山は作家デビュー当時から一部の雑誌からタレント扱いを受け、エッセイ集
を出した人気女優や同じ大学出身というだけで劇団の看板女優との対談など半ば
強引に引き受けさせられたこともあった。作家も十人十色で、そうした企画に積
極的に参加する人もいれば、いっさいの取材に応じない人もいる。そういう意味
において、芝山は中途半端な存在だった。それは芝山自身も自覚していることで、
T女優と銀座めぐりUという企画が舞い込んだのも、雑誌編集者が芝山の作家と
いう肩書きとフォトジェニックな側面に注目しているからにほかならない。
 芝山はどう返答しようか迷った。なぜ、おれは迷うのだ。こんなものは即座に
断るべきだ。一方で、いまこの時点で自分の存在を忘れないでいてくれる編集者
がいることはうれしいではないか、大事にしたほうがいいのではないか、そう思
い直したりもする自分がなんとも情けなかった。腐っても鯛? まるで、芝山祐
輔という名前だけがふわふわと浮かんだ、実体のない自分であるような気がした。
いまは、小説を書くことだ。タレントの真似事をしているうちに、どんどん本道
から外れて行くような気がした。それこそ、作品を世に送り出せなくなってしま
ったら、名前すら忘れられていくのである。迷った末、メールの返事を送った。
「せっかくの企画ですが、スケジュールの都合がつかないので遠慮させていただ
きます」

 それから芝山は九月で休刊となる文芸誌の連載小説の原稿を書こうと自分を奮
い立たせてパソコンのファイルを開いた。
連載を続けていた文芸誌は20年ほど前に、“気鋭の作家を育成する”という主旨
のもとに創刊された。年2回の新人文学賞を設け、いわば作家の登竜門としての
ステータスを保ち、ここから何人もの人気作家が誕生した。しかし、売れ行きが
悪く、発行部数を減らしても返本率が高く、ついに休刊せざるを得なくなったの
である。芝山にとっても思い入れのある文芸誌だっただけに休刊は惜しまれるの
だが、それ以上に15回の予定で進めていた連載小説の残り6回分を3回で終わら
せるという変則に気持ちが萎えた。次号分は推敲するだけとなっていただけに、
それを一度ゼロに戻して三回分として構成しなおさなければならない。尻切れと
んぼになってしまいそうだった。
 芝山は次号分の原稿を読み返し、加筆しているうちに朝を迎えたのだった。

 朝の散歩は気分転換になった。マンションに戻ると、午前七時を過ぎていた。
芝山はニュースを見ながら軽く朝食をとってから、コーヒーを煎れてパソコンの
前に落ち着いた。とりあえず、連載小説のほうは最終回までを書いてしまうつも
りだった。原稿用紙にしてざっと50枚。1週間あれば書けるはずだったが、この
小説の単行本化の予定が立たないので気が重かった。書き下ろし長編も合わせて
面倒を見てくれる出版社があればいいのだが、新規開拓していくしかないのだろ
うか。芝山はぼんやりと考えた。これまでは黙っていても依頼がきて小説だけを
書いていればよかったが、今後の展開は予想もつかなかった。
 S出版社の大野が芝山を見限り、片岡真貴子が会ったM出版社の石川までが芝山
のことを心配しているということは、業界では「彼の小説は売れない」などとい
った噂が広まっているのだろうと想像できた。
 どこも鵜の目鷹の目で売れ筋の作品と書き手を探している。ベストセラーが出
ると、当然一社だけがその作家を独占するわけではなく、大手出版社は動き出す。
しかし、火がついたからといって、次作以降も同量の売れ行きを示すとは限らな
い。確かに芝山の場合は、コンスタントに売れ続けてきたが、ここ一、二年は新
刊の文庫でさえ、横ばいどころか確実にダウンしているのである。特に最新刊は
半年近くたった現時点でも予想ラインの半分にも到達していないのである。新し
い読者を開拓できないばかりか、芝山から離れていった読者が増えたということ
だろう。しかし、そうした現象について考えるとき、芝山は作品の劣化であると
は思いたくなかった。
 どんな本が売れるのか。ひところの勢いがなくなってしまったサスペンス&ミ
ステリー小説も頭打ちとなれば、次に人々が求めるものとは何か。芝山が書き下
ろし長編のために書いた梗概はミステリー仕立てだった。当初、大野の希望を組
んで「売れるミステリー」をめざすつもりではいたが、いまの自分には「売れる
ミステリー」など書けないのではないだろうか。書けないと思うのは、書きたく
ないからなのか。
 小説家は作品を発表していくのが本道である。若いころ人気があって小説を量
産していても、晩年はまったく小説を書かずに人生論を展開してはベストセラー
にしてしまう作家もいる。小説世界にひとつの完結を見た作家は新たな人間探究
の道を歩んでいるかのように見えた。芝山は作家デビューして十年にも満たない。
長短にかかわりなく、とにかく次から次へと小説を書き続けることの困難さを感
じるのである。どんなことでも小説にすることはできるだろう。小耳にはさんだ
誰かの失恋ばなしに新鮮さを感じれば、それを膨らませて書くことはいくらでも
できる。おそらく作家の大半が人物や事件に触発され、あるいはヒントを得て、
物語を構築していくのだろう。
 原稿を書きながら、脳裏を駆け巡るのは雑多なことばかりである。キーボード
を打つ手を休め、芝山は一息ついた。おれは小説を書く職人になればいいのか。
読者の興味をそそるような突出した人物を見つけて取材し、料理するための手段
を講じてみようか。そんなことを考えていると、ふと数年前に会った男との会話
が甦った。

 表参道のファッションビルの一階にあるティールームで編集者と打ち合わせを
しているときのことだった。店の奥のほうから一人の男がそばにやってきて、編
集者に「よう、しばらくだね」と声をかけた。男は芝山も名前だけは知っている
音楽評論家だった。ジーンズにGジャン、黒のロンドンブーツというまるで七十
年代のロックミュージシャンのようなスタイルだが、芝山よりも十五、六歳は年
上の男の顔は皺が目立ち、くたびれた印象を与えた。
 編集者は少し驚いた表情で「やあ、久しぶりですね」と挨拶をしてから、それ
ぞれを紹介した。
「笹本です。初めましてっていうより、芝山さんの小説は何冊か読んでいるよ。
まさか、こんなところで本物に会えるとは奇遇だなあ」
「芝山です。ぼくも昔、笹本さんが書かれたものを読みました」
 そういったあとから、芝山は相手に対して失礼な挨拶だったことに気がついた
のだが、最近の音楽雑誌を読むことはなく、まして笹本が得意とするロックも聴
かなくなっているので、ついそのような挨拶になってしまったのである。
「笹本さん、よければお掛けになりませんか。こちらの打ち合わせはだいたい終
わりましたので」
 編集者が気をきかせて隣の椅子に移動すると、笹本は「じゃあ、ちょっとだけ」
などといいながら、どかっと腰をおろした。
 笹本は大きな声でベラベラとよく喋る男だった。芝山が相手ということもあり、
小説の話を持ち出した。ボリス・ヴィアン、ヘンリー・ミラー、ジャン・ジュネ、
セリーヌ、ケルアック、バロウズ、そして三島由紀夫という作家の名前が彼の口
から飛び出した。いずれも芝山の関心の外にあった作家だったので、なぜかほっ
とした。笹本の世代がロックに夢中だったころ、その辺りの作家は特に人気があ
った。それにしても、笹本の話し言葉が現代の若者風で、やたら「ロック的生き
方」を強調するので、芝山は閉口した。
「ところでさ、芝山さんの小説に登場する主人公にはモデルがいるの?」
 唐突に素朴な質問を向けてくるので驚いた。
「特にいませんね」
「あ、そう。でも、けっこう身近な人間のことなんか書いていたりして」
「あまり、意識したことはないですよ」
「おれの知り合いにも小説家がいるんだけどさ。ここでは名前をふせておくけど、
けっこう売れているやつ。そいつがさ、たまたま酒飲んだときにこっちがしゃべ
ったことをそのまま小説にしてしまったんだぜ。しかも、それが1回、2回じゃ
ない。うまい具合にブレンドしてさ、おれの恋愛体験や青春の日々の話が小説に
なっているんで、びっくり。筋書きはちがうけど、シチュエーションとか、主人
公の心情とかはさ、おれそのものなんだよなあ。本人に詰め寄るのもおとなげな
いんで黙っていたけど、けっこう売れたらしいから、こっちにも印税の何パーセ
ントかよこせよと言いたくなったよ」
 ひとり大声でまくしたてる笹本に思わず「おとなげないですね」と言いそうに
なった芝山は苦笑するしかなかった。
「プロでもけっこう行き詰まっちまうと、他人の経験を材料にするんだもんな。
それにしても、小説家というのは恵まれているよね。雑誌に書いて原稿料が出る
だろう、単行本化されて、さらに文庫化されて印税が出るだろう。うらやましい
稼業だよなあ。おれも、一時、書いたりしてたんだけど、どうも向かないね」
 笹本の甲高い笑い声があたりに響き、近くに座っていた数人の客などは露骨に
好奇の目を向けた。四十代後半の人間がこのようなことを平気で喋るということ
が芝山には信じられなかった。いや、年齢は関係ないのだろう。おそらく、笹本
はどこにいてもこんな調子で「ロック的生き方」をふりかざし、友人のうわさ話
をしているのだろう。芝山は返す言葉もなくただ席を立つことばかりを考えてい
たのである。
「笹本さん、お忙しいところをお引き止めしてすみませんでしたね。これから予
定があるのじゃないですか」
 編集者が機転をきかせると、笹本は「あ、おれ、新宿でライブの取材があるん
だった。けっこうイケている日本のロックバンドだぜ」と思い出したように言い、
さらに続けた。
「そういえば、芝山さんはロックの人じゃないよね。小説もロックの匂いがしな
い。だいたい、雰囲気がジャズっぽいもんね」
 甲高い笑い声を残して音楽評論家は席を立ち、そのまま店から出ていった。
「芝山さん、どうもすみませんでした。いつもあんな調子なんですよ」
「あの世代の人って元気なのかな。でも、ちょっとハラハラするようなことを言
うので驚いた」

 芝山はそのときのことを思い出し、ふと笹本がベラベラと喋った内容の一部に
ついては、ほかの誰かも同じように感じていても不思議ではないことに気がつい
たのである。
「プロでもけっこう行き詰まっちまうと、他人の経験を材料にするんだもんな」
 そのひとことが妙に生々しく甦ってきた。なにか、もやもやしたものの核心に
ふれたような感じがしたのである。               (つづく)

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