「さきほどはお電話に出られなくてすみませんでした。ちょうど園児たちとラン
チを食べていました」
麻美の申し訳なさそうな声が芝山の耳に届く。
「ぼくのほうこそ昼食時間に電話して悪かったね」
「いえ、そんなことないです。いま、園児たちの見送りをしてきたところです」
「メールにも書いたけれど、近いうちに食事でもいっしょにどうかな? もし、
都合がつけば連休前にでも会えたらいいなと思って。京都に行くのは何日?」
芝山は麻美のほうの時間を気にして一気に用件を伝えた。
「京都は5月2日から2泊3日です。それまでは特に予定がないので、いつでも
いいです。ただ・・・」
「えっ、ただ、何?」
数秒の間があってから、「いえ、何でもないです。ごめんなさい」という麻美
の返事に、芝山は一瞬だが、はぐらかされたような気がした。
「あ、晶くんも連れてくればいいよ。それじゃ、今度の日曜日の昼がいいかな」
「芝山さん、晶のことは気にしないでください」
一瞬、麻美の言葉に動揺したが、芝山はあえて問い返さなかった。
「それじゃあ、金曜日の夜、六時でどうかな」
「はい、大丈夫です」
「そちら方面からだと、やっぱり銀座がいちばん便利かな。それともどこか行き
たいところある?」
「芝山さんにおまかせします」
「じゃあ、和光の前は人が多いから、本屋で待ち合わせよう。和光の並びの教文
館のニ階でいいかな」
「はい、わかりました」
特に芝山は本屋の待ち合わせにこだわったわけではなかったが、麻美の声が笑
っているように聞こえた。
二人は「楽しみにしている」などと言い合ってから電話を切った。
芝山は約束を取り付けなんとなくほっとした途端に空腹を覚えたので、フレン
チトーストと簡単な野菜サラダだけの昼食をとってから、再び連載小説の原稿を
書きはじめた。
ふと、音が欲しいなと思い、CDラックからセロニアス・モンクの『モンクス・
ミュージック』を取り出した。これはCD化されたばかりのころに買い求めたもの
である。ジャケットのモンクの写真がなんといってもユニークである。スーツ姿、
タータンチェックのハンチング、竹製フレームのサングラスをかけた大男のモン
クが子ども用の車に腰掛け、膝の上には大事な譜面がのっている。この演出はモ
ンク自身のアイデアなのか、それともカメラマンがそうさせたのか。ピアノの高
僧の一面とはいえ、芝山は見るたびに愉快な気持ちにさせられる。
モンクが好きだという短い賛美歌は4本のホーンだけの演奏で、そのあとから
軽快なセッションが続いていく。繰り出される音に乗って、芝山の10本の指はま
るでピアノの鍵盤を操るかのようなタッチでリズミカルに踊り、画面には次から
次へと文字が現れてくる。
この連載小説を早く終わらせたいというはやる気持ちがあった。すでに迷いの
ない物語の終焉に向かって芝山は指を動かし続けた。一気に数十行を書いたとこ
ろで、指が止まった。
ふと、麻美が「晶のことは気にしないでください」と言ったことを思い出した
のである。あれはどういう意味なのだろうか。単に気を使ってのことだったのか。
麻美の真意が図りかねたのだが、すぐに気にすることでもないのだろうと思い直
し、再びキーボードを打ち続けた。
次号に掲載分の原稿を書き上げたあと、すぐにその次の分にも着手したいとい
う気持ちはあったものの、さすがに疲労を感じて大きく伸びをした。パソコン画
面の時間表示を見ると、4:45PMになっていた。
「もう、こんな時間か、早いなあ」とひとりごち、仕事部屋の明かりをつけた。
パソコン上でファイルの保存をしてからメールをチェックすると、女性誌の編集
長、北原菜穂子から次のようなメールが届いていた。
芝山祐輔様
ご無沙汰しています。
その後、お変わりございませんか?
こちらは10周年記念号の準備もあるので何かと忙しい日々です。
さて、お願いしてあった10月号からの新連載の原稿ですが、6月初旬あたりに
一度読ませていただきたいのですが、いかがですか?文字数は4000字前後です。
内容によってイラストレーターを決めたいと思っています。
エッセイでもショートストーリーでもない、ミステリアスな?原稿を楽しみにし
ています。
追伸:わたしは明後日から10日間、イギリスへ取材です。もし何かありました
ら、松本という編集者に連絡してください。
北原菜穂子
芝山はメールを読んでから、ひとつため息をついた。
二月に北原菜穂子と会って打ち合わせをしたときの気持ちは嘘のように、いま
は萎えていたのだ。
北原の難しい注文だったが、その時点では面白いものが書けそうな気がしたし、
書きたいという意欲もわき、アイデアも浮かんだ。麻美との出会いもヒントにな
りそうだと思った。雪の女、風の女、雨の女、月の女、石の女、鉄の女、その女
たちは実は一人の女だったという連作ストーリー。すべてが男の一人称で綴られ
ていくのだ。決して多重人格の女を描くのではなく、男の幻惑を描くミステリー
になりはしないだろうか。構想はふくらんだが、連載が終わって単行本にしたと
き、おそらく平凡な恋愛小説集になってしまうのではないかと危惧した。
当初のアイデアはいつのまにか日々の泡の中へと消えつつあった。男と女の話
から離れたほうがいいのかもしれない。
芝山はメールをぼんやり眺めながら、再び大きなため息をついた。いくつかの
メールに事務的な返事をしてからパソコンのシステムを終了させた。
仕事部屋からリビングに移動して明かりをつけ、カーテンを引いた。午後六時
になろうとしていた。夕飯どうしようかなと思っているところで、電話が鳴った。
「おれ、野村。いま、忙しいのかい?」
野村賢司とは一月に会って以来、連絡を取り合っていなかった。
「いや、夕飯を作るべきか、そのへんに食べに行こうか、どうしようか考えてい
たところさ。どうした?」
「おれ、札幌勤務になったんだ。一昨日、内辞があった」
「連休前のこの時期に? 札幌とは、遠いなあ。家族もいっしょだろう?」
「おれはそのつもりだったのだが、カミさんが東京から離れたくないっていうし、
子どもの学校のこともあるし、ま、お決まりの単身赴任コースだよ」
野村には小学四年の娘と小学二年の息子がいた。芝山はいまのうちなら、家族
で引っ越してもいいのではないかと思ったが、それは口にしなかった。
「たいへんだなあ。で、いつ向こうに行く?」
「五月二十日に赴任だけど、部屋探しがあるから、連休前に札幌に行ってくるよ。
おれ、あと十分ぐらいで出られそうだから、どこかでメシでも食わないか?」
「ああ、いいよ。それじゃあ、渋谷がいいだろう? 久しぶりにTよし川Uって
いうのはどうだい?」
「おお、いいよ。じゃ、七時には着くと思う」
電話を切ったあと、野村には話したいことが山ほどあるのだろうな、と芝山は
思った。 (つづく)