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明治通りから路地に入ったところにあるTよし川Uは芝山が広告代理店に勤務
していたときに知った家庭料理の店で、プライベートな会合などによく利用した が、ここ一年ほど足が遠のいていた。 「おや、芝山さん、久しぶりですね」 カウンターの向こうから声を掛けてきたのはこの店の主人で、短く刈った髪の ほとんどが白くなっているが、浅黒く引き締まった精悍な顔つきは七十歳を超え ているようには見えない。 「ご無沙汰しています。源さんは相変わらずお元気そうで何よりです」 「まあ、元気だけが取り柄ですかね。最近、娘にも子どもができましてね、孫が 内と外に四人になりましたよ。芝山さんも相変わらず人気作家で何よりですな」 「いえ、それほどでもないですよ」 自然な照れ笑いしてみせてから、芝山の気持ちは少しばかり萎えてしまった。 カウンター席の中央に並んで座っていた二人の女性客が同時に「人気作家」を振 り返った。そういうことに慣れているとはいえ、また、女の視線を浴びて喜ぶ男 のほうが多いのだろうが、芝山の場合は逆だった。愉快な気持ちにはなれない。 「芝山さん、いらっしゃい。ちっとも顔を見せてくれないのでつい先日もお客さ んときっと忙しいのねと噂していたんですよ」 奥の方から源さんの妻が顔を出してきた。馴染みの客は彼女をTおかみさんU と呼ばずにTお澄さんUと呼んでいる。このお澄さんは源さんと結婚する前は劇 団の女優だった人で、名前のとおりにとても澄んだ声の持ち主である。 「やあ、ご無沙汰です。あとから野村も来ます」 「まあ、野村さんも久しぶりね。あら、カウンターでいいの?きょうは奥のお座 敷あいていますよ」 「いえ、ここでいいですよ」 芝山が奥の席に腰掛けると、女性客の一人が無遠慮な視線を向けてきた。一瞬、 視線が合った。そこに挑発的な目の色を見て、芝山はさっと視線をはずした。そ んなにジロジロ見るなよ、と言ってやりたくなった。 「芝山さん、まずは瓶ビールでしょう? 」 お澄さんのにこやかな顔につられて芝山の表情がゆるんでくる。 「はい、やはり、最初はビールですね」 一年ぶりのTよし川Uだったが、源さん夫婦の変わらぬ対応に芝山は胸の奥底 から湧き出る懐かしいような感情に支配された。ひとつの安堵感を覚えていた。 そして、この一年間のさまざまな出来事や心境の変化が甦った。 芝山はお澄さんに注がれたビールを飲み、通しのうざくを味わった。Tよし川U ではTきょうのおすすめ料理Uを何品か注文し、最後に鯛茶漬けか旬の素材の炊 込み御飯を食べるというのが、芝山の気に入りのコースだった。カウンター越し に源さんとたわいのない会話を交わしているところに野村がやってきた。 「いらっしゃい」 源さん夫婦がそろって野村に声をかけた。野村は「どうもご無沙汰です」と挨 拶しながら芝山の隣に座った。野村の顔を見て、冬に会ったときよりもやせたな と芝山は思った。 「転勤、いろいろとたいへんだろう?」 「まあね。なにしろ、この年齢になって初めての一人暮らしなもんだから、大丈 夫かいなって感じだよ。まあ、冗談だけどね」 野村は大きな声をたてて笑った。 「まあ、野村さん、どちらに転勤ですか?」 お澄さんが盆にのったビアグラスと通しの小鉢を野村の前に置いた。 「札幌ですよ」 「あら、うちの息子も三年ほど札幌にいたことがあるのよ。一度、遊びに行った けれど、いいところでした」 源さん夫婦には二男一女があったが、息子二人はサラリーマン、娘もサラリー マンと結婚したため、店を継ぐ者はなく、「わたし一代で築いた店は、きれいさ っぱり一代かぎりで仕舞いにしよう」と源さんは覚悟を決めていた。 創業して四十年、バブル期にも移転することもなく、また改装もせずに営業を 続けてきたTよし川Uを一代で終わらせることにはそれなりの価値がある。二人 の息子が大学卒業後、企業に就職したときも、源さんは何も言わなかった。子ど もたちが選んだ道に異存のあろうはずもなく、自分の後を継ぐことを強要すべき ではないというのが源さんの考え方だった。十代から板前修業をして三十歳で店 を構えたとき、ひとつの夢の実現をみた。そして四十年も続けてきたのである。 Tよし川Uが誰にも引き継がれることなく、源さんの代で終わりを遂げたとして も、それこそが一つの完成品となり得るのである。もし、代替わりによってTよ し川Uの名前が残ったとしても、形は変わっていくだろう。百年以上も続いてい る老舗は、伝統を守りながら、時代とともに様変わりしていったはずだ。もちろ ん、利用する客も代が替わっていくわけだから、老舗の名前だけが一人歩きして いるようにも見えてくる。 芝山が十年ほどに源さんと交わした会話などから受けた彼の印象は、頑固なの だが、意外に柔軟な考え方をする人間だということだった。彼のこだわりは料理 にあり、生涯現役を貫くという姿勢にあり、それ以外のことについては「なるよ うになっていくもんだねえ」といたってのんきなのだった。 野村はお澄さんに注がれたビールを一気に飲み干し、「源さんの料理もしばら く食べられないから、今夜は食いだめします」と源さんに笑ってみせた。 「承知しました。野村さんの好物、鰯のつみれ汁も作りますよ」 源さんの言葉に感激したのか、野村は「おお、ありがたい」と言って手酌でビ ールを注いで瓶を空にして、 「日本酒にしようぜ。熱燗二本お願いします。ところで、本の売れ行きは?」 野村の一言は挨拶がわりのようなものである。 「前にも言ったけれど、売れていないよ」 「そうか、売れていないか。でも、原稿依頼はあるんだろう?」 「いや、ないよ」 「ない? まったくないのか?」 「ああ、ないね。秋に女性誌の連載が始まるが、それは二月に依頼されたものな んだよ。いま抱えている連載も当初の約束とは違って、切り上げ入稿だしね」 「いま、時期が悪いのかな。でも、ほかにも取材されるとかはあるんだろう?」 「そういう話はあった。女優といっしょに銀座の店めぐりの企画さ。断ったよ」 「なんで断ったんだよ。いいじゃないか、女優と食べ歩き」 「ちっともよくないぜ。タレントじゃあるまいし、軽すぎるよ」 「軽いかなあ。昔はけっこうそういう企画にも乗っていたよな」 野村の言い方は決して嫌味ではなかったが、芝山はひとつため息をついて「う まく乗せられていたのさ」と返した。 「芝山、おまえ少し変わったな。でも、どんどん書いておけばいいさ。そうだろ う? おまえ、作家なんだからさ」 ここに芝山を励ます野村がいる。立場が逆転しているようなシチュエーション に、芝山は野村に申し訳ないような気がした。 「今夜はおれの話じゃないだろう? 野村の札幌転勤の話だね」 料理を運んできたお澄さんが、「ねえ、お座敷きのほうがゆっくりできるから 移ったほうがいいでしょう」と言ってきたので、どちらからともなく「そうだな。 移動しようか」ということになった。お澄さんの配慮である。 二人が立ち上がると、カウンターに座っている女性客が振り向いた。話は筒抜 けだったはずである。芝山は視線を感じながら、野村とともに奥の座敷へと移動 した。そこは四畳半ほどの個室になっており、ふつうの話声なら外には届かない。 床の間に花が活けられていた。万年青(おもと)の小さめの葉と黄色のパンジー、 葉のついた桜の枝の三種活けである。 座ぶとんの上であぐらをかくと、リラックスできた。野村も「やっぱり、この 部屋は落ち着くよな」と背広を脱いだ。 お澄さんと若い修業中の板前が料理を運んできた。 「どうぞ、ごゆっくりね。ころ合いを見て料理とお酒をお持ちしますよ」 そう言いながらお澄さんは襖を閉めた。 「さてと、飲もうぜ。おれの転勤は順当なものだから、心配は御無用だよ。まあ、 一人暮らしは慣れるまで時間がかかるかもしれないな」 それぞれ手酌で熱燗を飲んだ。 「なあ、野村、家族といっしょでないというのが、おれには引っ掛かるのだけど」 「うん。カミさんが行きたくないというのだから、しょうがないさ。上司には三 年ぐらいだと言われているけれど、3年といえば、上の子どもが中学に上がるだ ろう。そこがね、問題なのさ。カミさんは東京の私立に入れたがっているしね。 それに子どもたちもカミさんも友だちと離れるのがいやなんだ」 「そうは言っても、野村が一人暮らしというのも心配じゃないのかなあ」 「カミさんがかい? それはないと思うよ。まあ、おれとしては、一生に一度は 北海道に住んでみるのも悪くないと思ったんだよね。大自然にふれることは大事 だからさ。子どもたちをいろいろ遊びに連れて行きたいと、ね」 「ああ、わかるよ。おれがとやかく言う問題ではないな」 「まあ、夏休みには北海道に遊びにこさせるさ。おれも一か月に一度はこっちに 帰ってくるようにするし、出張もあるだろうから」 芝山と野村は大皿に盛られた鰯の梅干し煮を一本ずつ皿に取り分け、さっそく 口に運んだ。「お、うまいね」などと言い合いながら、日本酒を飲む。 二人は無言のまま、食べることに集中したのである。 (つづく) |