大皿に乗った鰯六尾と小松菜の煮びたしを食べ終わるころに、ふきの信田巻き
煮、牛肉のごまじょうゆ焼き、海老団子など五、六品がタイミングよく運ばれて
きた。野村の食べっぷりは実に気持ちのいいものだった。軽快な箸使いで次から
次へと口に運び、うまそうに食べる。ふと、個性派の俳優が登場するビールのコ
マーシャルを思い出した芝山もいつになく食が進んだ。合間に会話をはさみなが
ら、男ふたりは食べて飲んだ。
「ところで、片岡真貴子から連絡くるか? 元気なのかな」
野村は箸を置き、からになった器を重ねてテーブルの端に寄せた。
「この前、電話がきたよ。元気だな、彼女は。それで、ずいぶんと励まされてし
まったな。東京から遠く離れてみたらって言うから、スペインにでも行こうかな
と返事したけど、現実問題としてはそうもいかないしな」
「いや、おまえは独身だし、金もあるんだから、海外でロングステイというのも
いいのじゃないか」
「まあね。一年ぐらいかけて長編を書いてみるのも悪くないな」
芝山はそう言ってみただけだったが、酒の酔いのせいか、なんとなく気持ちが
高揚してきた。
「そうだよ。大丈夫さ。いまは休養と思っていればいいのだ。だいたい、芝山は
これまですべてにおいて順調だったよな。大学卒業してあの人気の広告代理店に
入って、そのうち小説書いたら賞をもらって一躍人気作家。しかも、タレントみ
たいな扱いされたよね。カミさんが雑誌に載っていたとよく買っていたからな。
人がうらやむほど、順風満帆だったよな」
誰かにそう言われるたびに、芝山は「苦悩することがない」と指摘されている
ような思いを抱くのだが、反論するのも説明するのも面倒になる。それぞれの感
じ方、意見として「まあ、そんなものかな」と甘受する。
「まあ、十年も二十年も売れ続けていくなんて思っていなかったし、おれに限ら
ず、初刷りの部数というのも確実に半減しているらしい」
「そうさ。ここはさ、静観するしかないんじゃないかな。焦ってみたって、答え
は出てこないし、ここが芝山の正念場だよ。おまえさ、自分でわかっているんだ
と思うよ。それで、片岡の本はいつ出るのかな」
「詳しいことはわからないが、来年の春には出るのじゃないかな」
「まあ、いいことだね。芝山もゆっくりとがんばれよ」
お澄さんが襖を開け、「きょうは筍御飯なので、鰯のつみれ汁といっしょにど
うかしら?」と声をかけてきた。
「おお、うれしいですね」
野村の弾んだ声につられた芝山も「筍御飯か、何年ぶりだろう」などと言って、
猪口に口をつけた。
「芝山が離婚したのって、去年のいまごろだったんじゃないか?」
突然、思い出したように野村が言った。
「ああ、そうだった。ずいぶん、遠いことのように思える」
「いま、美佐子さんはどうしているんだい?」
「去年、何度か食事したけど、アメリカに行きたいと言ってたなあ。最近は電話
もこないし、まあ、元気に仕事を続けているのじゃないかな」
「そうか。おれ、不思議だなと思うのは、芝山から美佐子さんと離婚したってこ
とを聞いたときに、まったく驚かなかったんだよ。おまえが淡々としすぎている
からなのかな。確かに似合いのカップルだった。披露パーティのときも、雑誌な
んかでふたりの写真が載っているのを見たときも、カッコいいのだよな。しかし、
なんていうのか、うまく言えないのだが、ま、やめておくよ」
野村が奥歯に物がはさまったような言い方をしているのではないことは、芝山
にも十分伝わっていた。どう表現していいのかわからないというのが、本当のと
ころなのだろう。
「話したいことがあるなら、かまわないさ。おれ、野村が言わんとしていること
がわかるような気がするのさ」
「そうか、わかるか。昔から芝山は変だったよな。いろいろな女とつき合ってい
たけど、いつのまにか別れていて、そのわりにはもめ事もなく無難にきたよな。
まったく、不思議だ」
そう言って、野村は腕組みをしておかしそうに笑った。
「笑うほどおかしいかな。おそらく、これまで誰も本気で好きになったことがな
いのかもしれないと思うことがあるんだよ。いまさらながらにね」
「ふむ、その辺はおれ自身もわからないなあ。でも、芝山の小説の中の主人公た
ちはかなり本気だぜ。人生に対しても女に関してもストイックだが、パッション
がある。で、家族の物語なんかも書いているから、ときどき別の作家の本かなと
と思うこともあったよ」
そこまで言って、野村は再び声をあげて笑った。
「書いているときは、彼らの人生を抱えておれも熱くなって物語の中へ入ってい
く。きっと、そのときのおれは芝山ではないのかもしれない。現実と虚構の間を
バランスよく行き来しているのかな」
「そうか。芝山自身よりも小説の中にリアリティがあるのかもしれないな。多分、
読者というのはよほどのことがないかぎり、作家とつき合ったりできないわけだ
から、作家の実像なんて関係ないのかもしれないな。おれなんか、大学のときか
らのつき合いだから、本を読むと不思議な感じがするのさ」
話がずれていくにつれて、芝山は黒川麻美のことを思い浮かべていた。
「そんなものかもしれないな。サイン会は苦手だったが、読者の感想などは興味
深く読ませてもらったな。版元のほうに手紙が送られてきているけど、読むとな
るほどそういう見方もあるのかと面白いよな」
「ううむ、こんな話の展開になるとは思っていなかったな。話がずれた。芝山、
いまは誰ともつき合っていないのか?」
話のオチはそこに着地するのか。芝山は苦笑して「ああ、いない」と返事をし
てから「ただ、気になる存在の人がいる。雪の日に会った」と酔いの勢いか、言
ってみたかったのか、予想外の言葉が飛び出した。
「お、冬の話じゃないか。雪女? 珍しいな、芝山がそんなこと言うなんて。告
白か、それとも新作のモデルかい。で、どんな人?」
身を乗り出した野村は相好をくずし芝山を見た。一瞬、直視されているんだと
思ったときには遅かった。芝山は後悔にも似た感情に支配されたが、言葉が出た。
「おれの本を熱心に読んでくれている、とてもきれいで不思議な人だ。おれより
十歳ぐらい年下だ。幼稚園に勤めていて、すでに子どもがいる」
野村はポカンとした表情で芝山を見た。おれは確実に酔っているか、あるいは
魔がさした?と芝山は思った。やや沈黙があってから、「お、びっくりしたよ。
芝山、それってさ、やっぱり小説のモデルなんだろう?」と野村が言った。
「いや、違うと思う。自分でもわからない。ただ、不思議な出会いで、冬からず
っと気になっている」
少しばかりむきになった芝山である。
「へえ、驚いた。芝山、どうしたんだい? 意外だなあ。いやあ、楽しくなってし
まったよ。うんうん、愉快だ、実に愉快だ。今度、会わせろよ。そうだ、みんな
で札幌に来たらいいよ」
野村が口からでまかせを言っているのか、酔っているのか、判断がつきかねた
が、芝山は二つの猪口に酒を注ぐ野村に言葉をかけた。
「そうだな、今夜は愉快な酒だな」
一瞬、叙情的な世界が薄いベールでおおわれたように見えた。 (つづく)