金曜日になった。昼過ぎに目覚めた芝山は重い頭のまま、ベランダのカーテン
を引いた。思いがけなく、雨が降っていた。どんよりとした空の色には、夜まで
雨を降らせようとする強い意志が見えた。雨の日のデートも悪くはないか、と思
いながら軽いストレッチをしてからバスルームに向かった。
芝山は明け方の五時まで連載小説を書き続けたあとベッドに入ったが、すっか
り目が冴えてしまい、なかなか眠りにつけなかった。芝山は覚醒した意識を一気
に遮断したかったので、バーボンのオンザロックを二杯飲んでから、再びベッド
にもぐり込んだ。空腹の胃袋はアルコールの直撃を受けた。すぐに酔いがまわっ
た。そのあとの記憶は夢の記憶とすり変わり、目覚めたときには頭が重かった芝
山である。
熱いシャワーを浴びてから、トーストとミルクと野菜サラダという簡単な食事
をとり、コーヒーを沸かした。愛用のマグカップを水きりシンクから取り出そう
としてやめた。たまには、気分を変えてカップ&ソーサーにしようと思い立ち、
食器棚に並ぶいくつかの中から白地にリーフがモチーフのものを選んだ。久しく
使用していなかったので、軽く洗剤で洗って熱い湯を注いで噐を温めた。
コーヒーを飲みながら朝刊に目を通していると、部屋の電話が鳴った。受話器
をとると、「芝山くん、元気?」という威勢のいい女の声だった。すぐに片岡真
貴子だとわかった。「ああ、なんとかね」と芝山が返すと、ケラケラ笑う真貴子
の声が耳に響いた。
「相変わらずよね、芝山くんは」
「まあ、そんなところだよ。なに、いま、日本なの、アメリカなの?」
「東京よ。ねえ、今夜、会えないかしら」
「きみはいつも急なんだな。今夜は約束があるんだよ」
「あら、残念。実は、わたしの本の担当になった編集者と銀座で食事することに
なっているのだけれど、その人が芝山さんもいっしょにどうかって言ってきたも
のだから誘ってみたのよ」
芝山は思わず、おれも今夜、銀座だよと言いそうになって止めた。一瞬の沈黙
をつくったあとから、後味の悪さを意識した。
「M社の編集者って、きみに紹介した人?」
「ううん、また別な人。だから、いい機会かなって思って」
真貴子にそう言われた芝山は立場が逆転したようで、苦笑いするしかなかった。
「そうか、それは残念だよ。きみの本のほうは順調みたいだね。また、声をかけ
てくれよ」
「じゃ、お互いに切磋琢磨して、本を出しましょうね」
話を切ってから、芝山はなぜか浮かない気分に陥ったが、振り払うようにして
出かける準備をした。
雨は降り続いていたにもかかわらず、銀座の和光の前は傘をさす人であふれて
いた。芝山は傘と傘がぶつかるのを気にしながら縫うようにして歩いた。時間が
あったので、途中の山野楽器に寄ろうかと思ったが、傘を閉じるのが面倒になり、
そのまま教文館まで歩いた。
一階の狭い出入り口がこの書店の難点である。芝山は傘を閉じてビニール袋に
入れて二階へ上がった。
新刊本コーナーで平積みになっている単行本の表紙を目で追っていると、『死
ぬには早すぎるぜ!』というタイトルが目に飛び込んだ。芝山がデビューしたこ
ろから活躍していたハードボイルド作家のものである。帯のキャッチコピーを読
めば、「糖尿病との闘いの日々を綴った渾身のエッセイ」とあった。小説ではな
かった。芝山よりも10歳近く年上の作家には会ったこともなければ、作品を読ん
だこともなかった。しかし、芝山は格別読みたいと思ったわけでもないが、気が
ついたらすぐそばのレジカウンターで金を払っていた。
「どちらのカバーにしますか?」と見本のカバーを指し示す販売員に尋ねられ、
ブルーのストライプ模様を選んだ。芝山が本を受け取って踵を返した瞬間、黒川
麻美の視線とぶつかった。驚いた。芝山の後ろに立っていたことになる。麻美の
目の表情には驚きの色はなく、むしろ笑っているように見えた。
「やあ、驚いた。っていうのもおかしいよね。ここで待ち合わせたんだから」
「いま、来たばかりです。レジの前に芝山さんがいるのが見えたので」
「そうか。きみは何か、本を買うのかな」
「いえ、いまは特に読みたい本はありません」
小さくつぶやいた麻美の顔を見て、芝山は少しやせたなと思ったが、口には出
さなかった。
二人は四丁目の交差点を背にして歩き出した。
ベージュのジャケット、黒のパンツに身をつつんだ麻美は明るいピンクの花柄
模様の傘をさしている。麻美にはそぐわない傘の色だな、というのが芝山の感想
だったが、雨の日に咲く傘の花は明るく華やかなほうがいいのかもしれない、な
どと思い直した。
「並木通りから路地を入ったところにあるイタリアンレストランに予約を入れて
あるのだけど、そこでいいかな」
「はい、いいです」
まるで小学生のような麻美の受け答えに芝山は笑いそうになった。緊張してい
るのかもしれない。ま、確かに、いやですとは言えないか。
「ところで、晶くんは元気にしているかな」
「はい、元気です」
「それはよかった。また、晶くんに会いたいなあ」
芝山は晶の顔を思い浮かべて、会いたいと思った。しかし、麻美のほうは芝山
の独り言と受け止めたのか、返事をしなかった。
「そういえば、連休に家族で京都に行くのが、楽しみだね?」
「はい、楽しみです」
まるで、おうむ返しである。傘をさしながら狭い歩道を並んで歩くのは、会話
がスムーズにいかないものなのか。芝山はそれ以上、話しかけるのをやめにした。
目的のレストランまであと1分ほどだった。
グリーンのクロスが掛ったテーブルをはさんで芝山と麻美は向き合った。少し
距離が遠いなと芝山は感じた。ふと、雪の日に初めて会った夜を思い出した。あ
のときは面接でもしているような気分になったものだった。直角に座るほうが親
しい会話が交わせるのかもしれないと、一瞬、席を変わろうと思いついて腰を浮
かせたが、ま、いいかと座りなおした。
麻美は相変わらず化粧っ気のない顔で、口紅さえつけていない。やはり、麻美
は鎌倉で会ったときよりも痩せていた。顔もいくぶんか青ざめているように見え
た。仕事と子育てと実家での暮らしがそうせるのか、それとも身の上に変化があ
ったのか、芝山は気になりながら、注文を取りにきた若い男にワインと料理を適
当に持ってくるように伝えた。
「仕事のほうは忙しいのかな」
「そんなに変化はありません。芝山さんはお忙しいのですか?」
「注文が減ってきているから、そうでもないですね。こんなときに、新しい小説
をせっせと書くべきですね」
芝山はそう言ったあとから、麻美の口調と同じになってしまったことに気がつ
き、自嘲ぎみに笑いをもらした。
「以前、取り組んでいらした小説はいつごろ書き上がるのですか?」
「ああ、そうだった。書き上げたら麻美さんに見せるって言ったよね。うーん、
残念ながら未定です」
麻美の落胆した表情に出合った。この人はおれの熱心な愛読者? それとも、
書けないでいるおれを心配してくれているのか?
「芝山さん、無理なさらないでください。わたし、待つことは好きですから」
麻美の目元が笑っていた。芝山の中で何かがはじけた。それが何なのか、芝山
自身にもわからなかったが、ただ気持ちがねじれていくような感覚だった。
「まあ、気長に待っていてください。そういえば、ですます調で始まるぼくらの
会話っていうフレーズ、ぼくは何かの小説に使ったことがあったな。まるで、い
まここにいるぼくらみたいだね」
芝山の半ばからかうような口調である。すると、麻美は「そうそう、覚えてい
ます」と言って、小説のタイトルを口にした。芝山は驚いた。どの小説に書いた
かなど、すっかり忘れていたからである。
「きみは熱心に読んでくれているんだね。ありがとう。ところで、きみは誰と話
すときでも、ですます調なのですか? もっとリラックスしてもいいのに」
くだけた調子で言ってみたが、麻美は真面目な顔で、
「芝山さんはわたしより10歳以上も年上の人ですので、自然にこういう口調にな
ってしまいます。おかしいですか?」
「いや、おかしくはない。自然なことかもしれない」
芝山は腑に落ちないような気持ちでそう答えた。麻美との距離は縮まらない。
会話もどこかちぐはぐである。おれは、この女のことを何一つ知らないのだ。い
や、知りたいくせに肝心なことを聞かずにいる。そんなことぐらい、とっくに気
がついていたよ。今夜のおれはどうかしている? なぜだ? 芝山にとって今夜
の麻美の態度こそ予想外のものだったのである。 (つづく)