「芝山さんは少しずるいです」
沈黙を破った麻美のひとことに、芝山は唖然とした。不意をつかれ、気が抜け
て失笑した。「少し」というあたりが笑えた。見れば、麻美も笑っている。
「どうしてずるいと思うのかな」
そう返したあとの答えはなんとなく想像ができた。
「芝山さんの誘導尋問でしょう? わたしに晶のことを話させようとしています」
「きみはずっと話したいと思っていたのじゃないかな」
「そうかもしれません。でも、単刀直入に聞かれていたら、いつでも話していた
と思います」
気になる切り返し方だなと芝山は感じた。聞かれれば話していたとは、どこか
傲慢で、思わせぶりだった。それこそ、ずるいではないか。そんな手合いの女た
ちは多い。あるいはかつての自分もそのような女たちの誰かとつき合ったことが
あったのかもしれないと芝山は思った。
「いや、それは少しちがうんじゃないかな。きみに子ども、晶くんという子ども
がいるって知ったときには、正直いって驚いたけど、ま、世の中にはそういうこ
ともある。ぼくは背景なんてどうでもいいとも思っていたのだけれどね」
そう言った先から、芝山はそうではなかったはずだと苦い思いにとらわれた。
自分自身、麻美の背景については知りたいという欲求があったにもかかわらず、
彼女が生きてきた時間を追うことはしなかったではないか。自分との関係性がど
のように展開していくのか、あるいは想像をめぐらせて物語をつくりたがってい
たのではないか。
「背景はどうでもいい・・・そうかもしれませんね。でも、はぐらかされている
ような感じです。あ、ごめんなさい」
「別にあやまることなんてない。おれ、いや、ぼくは混沌としている」
麻美は芝山を見てから「なんだか、滑稽な感じ」とつぶやいて笑った。
「なんだか、いびつでもある」
グラスに残っていたワインを飲み干したところで、腕時計を見ると8時を回っ
ていた。
「もしよかったら、場所を変えてゆっくり話そうよ。いまの話の続きでなくても
いい。今夜はいろいろきみと話をしたい。それとも門限があるから帰らなくては
ならないのかな」
芝山が冗談まじりに言うと、
「門限なんてありません。電車があるうちに帰ればいいもの」
少しむきになって言う麻美はさばさばしたような表情を見せた。
「お、いいね。それでは久しぶりに気に入っているバーに連れていこう」
外に出ると雨はまだ降り続いていた。それぞれに傘をさしながら、並木通りを
西へ向かって歩いていると、向こうからやってくる人影に気配を感じて視線を向
けたと同時に、声が上がった。
「わー、ユースケじゃないの」
芝山は驚いて、1年前に別れた妻の美佐子を見た。彼女には連れの男がいた。
もちろん、初めて見る顔だった。
「やあ、驚いたよ。しばらくだったね」
「わたしもびっくりしたわよ。元気だった?」
美佐子は芝山の一歩後ろに立っている麻美を無遠慮に見つめた。
「ああ、なんとか元気でいるよ。きみも相変わらず元気そうだね」
「わたしね、ユースケ、じゃなくて、祐輔さんにちょっと話したいことがあって
電話しようかと思っていたのよ。すごい偶然だわ。ね、新刊はいつ出るの?」
芝山は少し動揺していた。
「新刊か。いまのところ、予定はないよ」
「あら、スランプ? ってことはないわよね。楽しみにしているんだから、がん
ばってね」
「それはありがとう。きみの話って想像がつかないけれど、電話してくれよ。お
れ、いつでも家にいるからさ」
「うん、そうするわ。それじゃ、またね」
美佐子は再び麻美をちらっと見てから芝山に手を振り、少し離れたところでぼ
んやり立っている男のほうへ駆け寄っていった。ほんのりとオーデコロンの香り
が残った。芝山は懐かしいような気持ちになった。
7丁目の路地を入った奥にそのバーはあった。昭和30年代に開店したバーを芝
山が知ったのは広告代理店にいたころで、クライアントが紹介してくれたのだ。
数年前に店主が他界したあとは、芝山と同年代の甥がサラリーマンを辞めて店を
引き継いでいた。
店内は鰻の寝床のように細長く、カウンター席が20席ほどある。「いらっしゃ
いませ」と若い女のバーテンが声をかけてくる。カウンターの中央に立ってシェ
ーカーを振っているのがマスターで、芝山に気づくと軽く会釈をする。
カウンターに座っていた客が芝山を振り返り、横の席に移動して二人分の席を作
ってくれる。
芝山は客に礼を言い、麻美をうながして席についた。麻美は珍しそうに店内を
見回してから、
「こういう本格的なバーに来たのは初めてです。女性のバーテンさんって、カッ
コいいですね」
「最近は多くなったみたいだね。さて、初めの1杯、何にしますか?」
芝山は小さなメニューを麻美に渡した。
「カクテルって、ドライマティーニしか飲んだことがないです」
「ジンはおいしいね。それじゃ、飲んだことがないものを片っ端からいったら
いいよ。けっこう、酒が強そうだから」
「そんなことないです。ほとんど飲みに行かないですから」
「うちでは飲んでいるでしょう? お父さんの晩酌につき合っているのかな」
「全然です。年に2、3回しか飲まないです。それもビールをグラスに1杯程度」
「あ、お父さんが厳しいのかな」
「そんなこともないですけれど。あ、芝山さんは何を飲みますか?」
真剣な表情でメニューを見ている麻美の横顔を見て、芝山はきれいだなと思う。
「ぼくはマンハッタン」
麻美はメニューにマンハッタンを見つけて声に出す。
「バーボンがベースなんですね。わたしはサイドカーを飲んでみたいです」
「お、ブランデーときたか。シェークしてもらえるからいいね」
女のバーテンがそばに寄ってきたので、芝山は「彼女にサイドカーで、ぼくに
マンハッタン」と注文する。
麻美がバーテンの動作を目で追いながら、
「芝山さん、ここにはよくいらっしゃるんですか?」
「うーん、以前は、よく立ち寄ったんだけどね。去年の12月以来かな。常連のお
客さんが多い店だけど、馴れ馴れしい感じがないから、気に入っているんだよ」
「芝山さんらしいですね」
「どうして、そう思うの?」
おれのこと、何も知らないのにな。芝山は言いそうになってやめた。
「印象です。わたしが受けた印象です。芝山さんは群れない感じがしますから。
小説の主人公も、そんな人が多いですから」
麻美の言葉に芝山は吹き出しそうになった。
「ぼくの小説の主人公なんてどうでもいいよ」
「そんなことないです。わたしは芝山さんの小説に登場する主人公に惹かれまし
たから」
「それはどうもありがとう」
目の前で、女のバーテンがシェーカーを振っている。リズミカルに響く氷の柔
らかな音が心地よい。そして、鮮やかな手つきでカクテルグラスに注がれる琥珀
色の液体は実に美しい。次のマンハッタンはミキシンググラスでステアするのだ
が、これは簡単そうに見えて難しいのである。長いバースプーンをグラスに添わ
せてなめらかにステアする。バーテンのしなやかに動く手指も演出の一つになる。
芝山と麻美の前に注文のカクテルが並んだ。いずれも琥珀色である。
「それじゃ、乾杯だね」
二つのグラスが触れ合い、かすかな音が生じる。ほんのひとくちを飲んで、麻
美が「とてもおいしいです」と言う。
「サイドカーの次は何がいいかな」
「まだ考えていません」
麻美の真面目な言い方がかわいらしいと芝山は感じる。
「そういえば、チャンドラーの『長いお別れ』に、ギムレットには早すぎるって
いうセリフがあるんだけど、いいよな。映画の『カサブランカ』に出てくるきみ
の瞳に乾杯というセリフはきざで、とても恥ずかしくて言えない。あれは映画だ
からいいのだろう」
「芝山さんが言うのなら、きざに聞こえないと思いますけど」
「いや、そんなこと言おうものなら、目の前の女性が気持ち悪がる。ぜいぜい、
きみの前途に乾杯とか。いや、それもきざだな。ま、普通にお疲れさまでしたか
な。やっぱり、日本人だね」
芝山が麻美をちらっと見る。すでにその顔から笑いは消えていた。一点を見つ
め、何か考え込んでいるような表情である。
「わたしの前途って、どんなだろうか。ふと思うことがあります。うまく言えな
いのだけど、目的意識がないのか、こうしたいとか、ってないのかもしれません。
日々、流されているような自分を感じます。ふわっと、生きているような」
「それは、ぼくも同じかな」
「え? 芝山さんがそんなふうに感じているなんて信じられない。だって、小説
を書いているじゃないですか。確固たる目的に向かって書き続けているではない
ですか」
麻美が怪訝そうな表情で芝山の顔をのぞきこむ。
「確固たる目的か。果たして、小説を書くことが目的なんだろうか。最近のぼく
はそう思うことが多くなったよ。無責任な言い方になるけど、別に目的なんてな
くてもいいのじゃないかな。いや、目的を見失うってことも大事なことだと思う
んだよね。ふわっと、生きているような感覚、いいと思うよ」
「そうでしょうか。晶の母親なのに、自覚が足りないのです」
「自覚だとか、自己認識だとか、そんなものが不要に思えるときがあるんだな。
ま、単にぼくがいま怠けていたい心境にあるのかもしれないのだけれどね」
「芝山さんが怠けていたいと思うなんて、意外な感じです」
「そうかな。ぼくは小説を生産する機械ではないからね。多分、しばらく休めと
いうことなのかもしれない」
麻美のグラスが空になっているのに気づき、芝山は「次は何を注文する?」と
聞いてみる。
「ギムレットには早すぎるってことはないですね」
「そう、ギムレットには早すぎない。ぼくはテキーラ・サンライズにしよう。イ
ーグルスの曲だね。古いよな」
芝山はギムレットとテキーラ・サンライズを注文する。
「イーグルスって、昔のロックバンド? わたしは知らないです」
「きみはまだ生まれてなかったのかもしれない。麻美さんはどんな音楽が好き?」
「よく聴くのはクラシックです。わたし、晶がお腹にいたときから、音楽って聴
きたくないって思うようになったんです。メロディーも歌詞も耳に入ってこない
ように遮断していたような気がします。だから、ほとんどテレビも観なかったし。
でも、晶にはクラシックを聞かせました。うちには昔からクラシックのレコード
がたくさんあって、父が聴いていました。晶が生まれてから、父が孫にも聴かせ
るといって少しずつCDを買うようになったんです。父はいまでもレコード聴いて
いますけどね」
麻美はそこまで淡々と話してから、「ギムレットって、透明。あ、テキーラ・
サンライズの色ってきれい。これはテキーラとオレンジジュースなんですね」と
芝山が注文したカクテルに釘付けになる。飾られたオレンジが昇る朝日のように
光り輝いている。
「レモンジュースにすると、テキーラ・サンセットになるんだよ」
「素敵ですね。カクテルのネーミングって」
「ちょっと、飲んでみる?」
芝山はグラスを麻美の前に移動させた。
「では、ちょっとだけ味見します」
グラスに口をつけて「おいしいです」と芝山を見てからグラスを戻した。
「晶くんのお父さんとは会っているの?」
芝山の口から唐突な質問が飛び出した。しかし、それは話の流れのターニング
ポイントでもあった。 <つづく>