夢かうつつか。眠っているのか、覚醒しているのか。
白い砂浜に座って紺碧の海を眺めていると、突然、どこからともなく黄金色の
羽のようなものがゆっくりと舞い降りてきて足元に止まった。何かと思って拾い
上げてみると、それは美しい蝶の死骸だった。ふと、空を見上げた。色とりどり
の蝶の群舞が視界を覆った。まるで、万華鏡のようだった。
群れから離れ落ちてくる蝶が右腕に止まった。紫や橙の蝶が7匹。腕を振って
払おうとするが、蝶たちは羽を閉じたまま微動だにしない。今度は左手で払いの
けようとしたのだが、それでも蝶は頑なに止まったままである。蝶の手足がちく
ちくと皮膚を刺激する。腕を動かせば動かすほどその手足が皮膚に食い込み、激
しい痛みを感じる。砂浜に寝転んで、空を仰いだ。蝶の群舞は眼前に迫っていた。
このまま押しつぶされてしまうような恐怖におののきながら、右腕に止まって
いる7匹の蝶を見ると、一斉に羽を開いていた。サイケデリックな色彩に目を奪
われる。さらに痛みが増し、呼吸も苦しくなった。
夢から覚めたのか。あるいは、無意識のトンネルから抜け出てきたのか。どこ
かに着地することができたらしい。
芝山は身体で感じた記憶を引き戻そうとするのだが、朦朧とした意識に包まれ
たまま右腕だけにしびれが残り、全身に汗をかいていた。何度も寝返りを打った
のだろう。身体のあちこちが痛く、ようやく夢から覚めたことに気がついたのだ
った。そして、夢の経験は芝山の神経を磨耗した。
室内は明るかった。いま、何時なのだろうか。不安になった。時間の経過を追
ってみたが、どこからどこまでが現実的な時間であるのかすぐには把握できなか
った。
きょうは何曜日だろうか。まるで曜日の感覚がないのである。そうだ、黒川麻
美である。彼女と会ったのは金曜日の夜だった。あれから何日経っているのか。
芝山は重たい頭でぼんやりと考えながらベッドから起き上がり、居間を通り抜
けて玄関へ新聞を取りに行った。新聞受けから一部ずつ抜いて日付けを見ると、
二日分の朝刊と夕刊だった。驚いた。おれは新聞を読むこともしないで、どうや
ってやり過ごしていたというのだろうか。おれはどこを浮遊していのだろうか。
本当に長い眠りについていたのだろうか。
ダイニングテーブルの上にはビールの缶やバーボンの瓶が置いてあり、キッチ
ンをのぞくと、シンクにはグラスや皿、フライパン、鍋などが山のように積まれ
ている。二日間、酔い続け眠りこけていたのだろうか。青白い顔の芝山はよれよ
れのジャージ姿で居間のカーテンを引いて、ベランダの外を眺めた。午後の日差
しだった。
麻美と銀座のバーでカクテルを飲みながら過ごした時間が甦った。麻美の話を
聴きながら、次から次へとカクテルを飲んだ。何杯飲んだのか。いくら飲んでも
酔うことはなかった。麻美も同じだった。気がつくと、麻美が乗るべき終電の時
刻が過ぎていた。麻美は「朝まで飲んでいてもかまわないです」と言ったので、
芝山は一瞬そのとおりにしようかと思ったが、小さな晶の姿を思い出して「やは
り、タクシーで帰るべきだ」と言い、急いでバーを出た。雨はすっかり上がって
いた。金曜の夜とあって、なかなか空車のタクシーが見つからず、新橋近くまで
歩いた。
なんとか、空車が止まってくれたので、芝山は麻美にタクシー代を渡そうとす
ると強く拒否されたので面倒になり、彼女の手を引っ張ってタクシーに乗りみ、
「西葛西へ行ってから、駒沢へ」と運転手に告げた。
「1時半までには着くと思うよ」
「一人でも帰れるのに。わたし、タクシー代、持っていますから」
麻美は少し怒ったように言った。
「きみを家まで送ってみたくなった。いいだろう?」
車が走り出してからしばらく、麻美は押し黙ったまま車窓から外を見ていた。
車内では深刻な話の続きをするわけにもいかず、芝山も外の景色を眺めながら
麻美から聞いた話をひとり反芻していた。
「芝山さん、西葛西から駒沢の自宅までだいぶかかりますね。すみません。話を
聞いてもらったうえ、送ってもらうことになってしまって」
「いや、ぼくのほうこそ、遅くなって悪かったと思っている」
「芝山さんは悪くないです。悪いのはわたしです。いつも悪いのはわたしなんで
すから」
麻美は急に酔いが回ってしまったのか、それともバーで語ったことを後悔して
いるのか、ぐったりとしている様子だった。
麻美の隣で間接的に体温を感じながら、芝山の気持ちは静かに変化していた。
何度も想像していた麻美が過ごしてきた現在までの時間が、想像を超えてリアル
な情景として思い描けたのである。おそらく、麻美が語った数年間の軌跡はまぎ
れもない事実であろう。たとえ、第三者へ伝える事実が時に歪曲したものになり
得るのだとしても、麻美の気持ちに嘘はないと知ったのだった。
麻美への愛しさからだったのか、思わず芝山は彼女の右手に自分の左手を重ね
た。無抵抗の、ひんやりとした感触だった。麻美は無言のまま手を返して芝山の
左手を軽く握った。細くて長い麻美の指、手のひらの柔らかさにはっとして、芝
山はその手を強く握り返した。言葉は何もいらなかった。二人は手を握ったまま
無言だった。
麻美の家は環七から脇にそれた住宅地の一角にあった。小さな庭のある2階建
てで、玄関の明かりだけがポツンと点いていた。
「今夜はありがとうございました」
バッグから財布を出そうとする麻美を制して、「ぼくが送ったのだから、いら
ないからね」と芝山は言い、あらためて麻美に握手を求めた。
「こちこそ、楽しかったよ。遅くなって、怒られないかな」
「心配しなくても大丈夫です。芝山さんこそ、車の中で眠らないでくださいね」
ドアの外に出ると、麻美は何を思ったのか、咄嗟に直立不動の姿勢で小さく敬
礼などをしてみせた。硬い表情である。グレーのジャケットに膝丈の黒いスカー
トから真っ直ぐに伸びた細い足が芝山の目に映った。
ドアが静かに閉まり、車が発進した。麻美が右手を振っているその姿が見えな
くなるまで芝山も手を振った。まるで、二度と会えなくなってしまう「さよなら」
の挨拶のようだなとも思った芝山の脳裏にいつか観た映画のワンシーンが浮かび
上がったのである。
帰宅すると、午前3時近かった。芝山は酔いが覚めてしまった分、重い疲労を
感じていた。再び酒を飲みたいという欲求はなかったが、のどが乾いていたので
冷蔵庫から缶ビールを取り出して一気に飲んだ。冴えた頭とぼんやりとした心の
輪郭。その後もソファに座ってビールを飲み続けた。眠ることを忘れた。
音が欲しくなって、マイルス・ディヴィスの『フォア・アンド・モア』をかけ
た。2曲目の「ウォーキン」の攻撃性に打たれると、今度はバーボンを飲みたく
なったので、グラスに半分ほど注いで氷を3個入れた。思考力を放棄して、無感
覚の状態で怜悧な音の渦に激しく巻き込まれながら過ごしたのである。完璧な朝
がやってきたとき、ようやく芝山は重い足をひきずってベッドに辿り着いたのだ
った。
非日常の時間が永遠に続いているような感覚のまま眠りこけ、起きては適当に
固形物を胃の中へ送り込み、酒を飲んだ。途中、発熱があった。激しい頭痛と嘔
吐に見舞われた。しかし、芝山は断続的な二日酔いのような状態の中で、もちろ
ん仕事をする気力もわかず、パソコンを立ち上げることもしなかった。どこから
も電話はこなかった。いや、電話は鳴っいていたのかもしれないが、芝山は世界
から遮断された穴蔵の中にいた。時折、麻美と晶という麗しい母子像が脳裏に浮
かび上がっては消えた。
いま、おれは何をしたいのだろうか? おれにできることは何だろうか? お
れがすべきことは最初から決まっていたのではないだろうか? それは、小説を
書くことか? 麻美から聞いたそれまでの彼女の人生をモチーフにして小説を書
くことなのか? それとも、おれは・・・。問いかけだけが押し寄せ、答えはど
こにも存在しないようだった。
6年前、私立大学の2年生になったばかりの黒川麻美は証券会社に勤務する7
歳上の西沢秀俊と出会った。西沢は麻美の友人だった西沢沙織の従兄で同じ大学
のOBだった。出会いは学内誌の特別企画に参加したことがきっかけだ。それは卒
業生と在校生たちの座談会で、編集部員から麻美に参加者の一人として出席して
ほしいという依頼があったのだが、麻美はそういうことは苦手だったので一度は
断った。ところが、何の偶然だったのか、沙織が喜び勇んで「わたしの従兄もOB
として出席するんだってよ。だから、麻美も出てあげてよ」という意外性にそそ
られ、また、押し切られたような形で協力することになったのである。
日曜日の午後、卒業生3人と在校生3人の座談会が行われた。もちろん、沙織
も興味半分でやってきて、座談会の様子を見ていた。座談会は二時間という枠を
こえて大いに盛り上がり、麻美も予想に反して気持ちが高揚していた。散会のと
きには、飲みに行こうということになり、OB1人を除いた五人と沙織を加えて6
人で駅近くの居酒屋へ繰り出した。
麻美の隣に沙織が座り、その横に西沢秀俊が座ったので、会話を交わすことは
あまりなかったが、店を出ると自然に西沢と肩を並べて歩いていた。尚美もOBの
男性といっしょに歩いていた。西沢から「今度、食事に誘いたいので」と携帯電
話の番号を聞かれた麻美はどぎまぎしながら番号を伝えたのだ。
それから数日後、麻美は西沢から食事に誘われた。そのことを沙織に隠すつも
りはなかったのだが、何となく言いそびれたまま、西沢と会った。当時、麻美に
は交際している男はいなかったし、キャンパスに群がる男子学生たちに物足りな
さを感じていたこともあったのか、西沢が格好のいい大人の男に見えたのだ。2
度、3度と会うたびに二人は互いの気持ちを高め、初めて麻美が西沢のマンショ
ンを訪れた日に二人は結ばれた。
麻美にとっては初めての経験だった。そして、「離れたくない」「このまま朝
までいたい」「どうなっていもいい」といったような男女が交わす甘いささやき
の裏側に横たわる現実的なことはすべて霞んでしまい、気がついたときには、麻
美は母親に「友だちのところに泊まる」と嘘をついていたのである。
その日以来、麻美は頻繁に西沢の部屋を訪れるようになった。西沢との交際に
ついて家族には秘密にしておきたかった。なぜなのか? 両親に知れたら、反対
されるような予感があった。そして、秘密そのものに酔っていたかったのだ。毎
日のように大学で会っている沙織にも内緒にしていたのは心苦しくもあったが、
西沢の「まだ、沙織には言わないでおこう」という言葉を鵜のみにするほど、麻
美には何も見えていなかったのである。 (つづく)