秘密のはしごが掛けられると、その先にあるものを見届けるために上っていか
なければならないのだろうか。
「きみが卒業したら、結婚しよう」
西沢の言葉を素直に受け止めた麻美だったが、未知の世界に足を踏み入れたば
かりの心には将来的な時間は夢のようでもあった。「会いたい」という思いのま
ま時間に運ばれて西沢に会う。刹那、「好きだ」と実感する。
秘密の本性というものは均衡を保つことを避けたがるのか。さらに、共有する
秘密は目に見えない外的エネルギーによって、徐々に形を変えていくものなのだ
ろうか。
麻美が身体の変調に気がついたのは、大学が夏期休暇に入ってからだった。ふ
と、来るべきものが3週間経過してもこないということに不安がよぎった。もし
かすると・・・いや、いつもよりも遅れているのかもしれない、と不安をかき消
すようにして西沢に会った。
その日は「帰したくない」という西沢の言葉にひきずられそうになり、一人で
抱え込む不安から解放されたいと強く思った。しかし、親に嘘をついて外泊する
ことの後ろめたさを何度も味わいたくなかったので、彼に駅まで送られ改札口で
別れて電車に乗った。
ドアに寄りかかって電車に揺られていると、麻美はどうしようもない恐怖に襲
われた。現実に引き戻されて浮かび上がってくる「妊娠」の二文字。甘美だった
はずの秘密に黒い影が忍びよってきた。やはり、時間の経過をいろいろ遡ってみ
ると、不安材料だけが頭をもたげ、心はちぢに乱れた。麻美は何か途轍もない世
界に足を踏み入れてしまったような感覚にとらわれ、闇の向こうで待ち構えてい
るのは逆らえない運命の重い扉であるような気がした。
それから10日ほど、麻美は沈んだ気持ちのまま、友人の沙織から映画に誘われ
たり、母と買い物にも出かけたりした。西沢とは毎日のように携帯電話で話をし
たが、麻美は不安な気持ちを彼に伝えることができなかった。
猛暑の土曜日だった。西沢のマンションを訪れた麻美は「多分・・・」と切り
出した。西沢は驚き、その視線はしばし宙をさまよった。
「早く病院で検査してもらって、はっきりさせたほうがいい。もし、妊娠してい
たら、どうする?」
そう問われてみると、麻美は何も考えていないことに気がつき、「わからない
・・・」とつぶやいた。西沢は思い直したように「言い方が悪かった。とにかく、
いっしょに病院へ行こう」と麻美の肩を抱いた。
数日後、それが事実であることを知らされた二人は病院近くのカフェに寄った。
西沢が注文を取りに来たウェートレスに「ブレンドを二つ」と言ってから、すぐ
に「レモンジュースを二つ」と訂正したので、麻美はつい笑ってしまった。
それが西沢をリラックスさせたのか、「できちゃったね。ごめんな。麻美はま
だ学生なんだもんな。おれ、責任を感じるよ」と言った。
麻美には、スーツに身を包んだ西沢がまるで頼りなげな少年のように見えた。
そして、このような事態に遭遇した世間のカップルはどのような会話を交わす
のだろうか、などとぼんやりと考えていた。
「麻美はどう思っている?」という西沢の問いかけに、「困ったなって思ってい
る。選択肢は産むか、産まないかのどちらしかないから」と麻美は答えた。する
と、西沢も困ったような顔をして「麻美は産みたいの、それとも産みたくないの」
と聞いてきたので、「突然なので、わからない。自分の気持ちがどこかに逃げて
しまったみたい」と応えるのが精一杯だった。
二人の視線は絡まることなく、沈黙が続いた。そして、西沢が意を決したよう
に「結婚しよう。そうだ、それしかないよ」と言ってから、
「でも、麻美は大きなお腹を抱えて通学することになるよな。あ、休学すればい
いか。いろいろ問題は出てくるね。家族もびっくりするだろうな。沙織にも内緒
だったしね」などと早口で補足した。
麻美は西沢を見つめた。大人に見えていた西沢がおっちょこちょいなのか、い
い加減なのか、気が弱いのか、それとも優しいのか、よくわからなくなった、な
どと思う19歳の麻美にとって、妊娠も結婚も他人の記憶のように曖昧で、まるで
リアリティがなかった。結婚して出産するという選択は生活のすべてを一変させ
てしまうのだ。しかし、「産まない」ことを選択すれば、生活に大きな変化はな
くても、何かが壊れていくような予感が麻美にはあった。
妊娠しているという実感は持てなかったが、事実の重みが腹部を意識させた。
俄に、麻美は胎内に息づいている芽を育て、この世に登場させてみたいという衝
動にかられた。
この日、二人は今後の計画というものを立てた。いくつもの難関が待ち受けて
いるのを覚悟した。二人は誰にも知られることのなかった甘い密やかな関係では
なくなり、現実問題を抱えて奔走することになるのである。
麻美が両親に妊娠の事実を打ち明けたとき、普段は物静かな父親が「何だって?
妊娠だって? 何を言い出すのだ」と大声で怒鳴った。母親も「冗談でしょう。
ふざけているのね」と声を上げたが、麻美の表情を見て落胆した。
それから先は、「親をだましていたとはひどい娘だ」「まだ、学生なんだぞ」
「相手は誰なんだ」「どうするつもりだ」など、次から次へと感情的な言葉に襲
われ、麻美は打ちひしがれて「ごめんなさい」とあやまるしかなかった。
父は怒ったまま和室に引っ込み、母は居間のソファでクッションを抱えて泣き
続けた。その夜は麻美も仕方なく、自室に引き上げた。西沢と交際していること
も知らされていなかった両親には、麻美の妊娠は青天の霹靂である。世の中、広
いとはいえ、突然、学生の娘からそのような告白を聞いて「よかったね」などと
喜ぶ親はごく稀だろう。祝福すべきことにも順番があり、それが大人たちの常識
らしきものだった。
両親の怒りや落胆は想像していたものの、麻美は途方に暮れた。しかし、前へ
と進まなくてはならなかったし、産みたいという気持ちも変わるものではなかっ
た。麻美は一睡もできずに朝を迎えた。
親子はほとんど会話を交わすことがなく、父が仕事に出かけたあとの母は黙っ
たまま、怒ったような顔で家事に専念した。麻美も自室にこもった。
4日目の夜、麻美が風呂から上がると母に声を掛けられた。
「お父さんが話したいと言っているから、あとでこっちに来て」
居間には苦渋に満ちた表情の父の姿があった。隣に座っている母はどこかうつ
ろな目で麻美を見た。
「相手の名前は? 学生か? いつからつき合っているんだ?」
「西沢秀俊さんといって、証券会社に勤務しています。つき合い始めたのは4月
からです」
父には言いたいことが山のようにあったのだろうが、自らの気持ちを抑えるよ
うにしてこう言った。
「麻美はどうするつもりなのだ?」
「西沢さんと結婚します」
「それで、大学はやめるのか?」
「しばらく休学します」
「麻美はまだまだ子どもだ。勝手だ。すべてが甘い。なぜ、その西沢という男は
ここに来ない? おかしいではないか。あやまりに来てもいいではないか」
西沢が父にあやまるような筋の話ではないと、麻美にはそこのところが理解で
きなかった。
「西沢さんは近いうちに挨拶に来ると言っています」
「どうだか、わかったものじゃない。順番が逆だ。おまえはまだ学生なのだ。な
ぜ、つき合っていることを隠していた。おかしいではないか。麻美はその西沢と
いう男に騙されているのではないか。多分、西沢はいい加減な人間だと思うよ」
極めて冷静につとめていた父の口から不満ばかりが繰り出されるので、麻美は
ただ黙って聞いているしかなかった。すると、それまで黙っていた母が「お父さ
ん、何を言っても無駄。麻美は結婚するしかない。人生は思いどおりにはいかな
いってこと」と言って立ち上がった。
麻美は母の態度に驚き、父などは呆気にとられたが、観念したように「西沢に
会おう」と折れたのだった。
真夜中には、家を出て自活している姉の朋美から電話がかかってきて、「お母
さんから聞いたわ。まったく、麻美は将来のビジョンを持っていないから、そう
なるのだ」と非難された。それも仕方のないことだとして、麻美は黙って受け止
めるしかなかった。
その後、事は順調に運んだわけではなかった。西沢の従妹でもある友人の沙織
には麻美から電話で伝えた。
「なぜ、つき合っていたことを隠していたの。二人にだまされていた感じがする。
いきなり、妊娠、結婚だなんて、何て言っていいのかわからない」と声の調子が
沈んでいた。説明を添えると、それはすべて言い訳になるのだと決め込み、麻美
は何もいわずに「ごめんなさい」と言うしかなかった。
西沢のほうは両親からさんざんもんくを言われたが、どうにか押し切った。し
かし、両家の顔合わせのときには気まずい空気が流れ、祝福されるすべき結婚の
の影も形もなかった。
一応、二人は入籍したが、西沢に対していい印象が持っていなかった父は娘が
出産して落ち着くまで実家で暮らすという条件を出した。そのような別居結婚に
対して、西沢は異論を唱えるでもなく、「お父さんの言うとおりにしよう」と消
極的だった。麻美には西沢は滑稽なほど気弱な男に見えたのである。
麻美は孤立した自分を感じた。ただ、自室にこもっているときだけは、一人で
はなかった。人たちの営みや感情とは無関係に、小さな命だけが平気な顔をして
すくすくと育っているのだなと思うと、麻美は力がわいた。その力によって腹が
風船のように膨らんでいく自分の姿、そして生まれてくる子どもの姿を想像する
ことだけが、あるがままの世界だった。西沢に恋をしていた自分は遥か遠くに霞
んで見えたのだった。
不穏な時間が流れて、新学期が始まった。麻美はつわりに苦しみながら通学し
た。夏休み前とはまったく違う自分を意識せざるを得なかった。久しぶりに会っ
た沙織は「ご無沙汰。身体、大丈夫?」などと声を掛けてきたが、その態度はど
こかよそよそしかった。麻美もぎこちなく笑って「なんとか、やっている」と答
えただけだった。沙織にとっては友人関係を断ち切るのは実に簡単なことだった
のだ。
麻美は高校時代から親しくしていた友人にも打ち明けたが、やはり驚かれて「麻
美に彼氏がいたなんて知らなかった。なんで隠す必要があったのよ。ドジだなあ。
産むっていっても、大学はどうするの? これからまだまだ楽しくなるのに、も
ったいないね」と言われ、縁が切れていくのを感じた。おそらく、自分は友人た
ちから見れば勝手な人間なのだろうと考えざるを得なかった。それにしても、友
人関係とはなんと脆いものなのか。祝福の言葉はどこにも存在していなかった。
「小さな世界の狭い世間。でも、きみのいる世界は広いね」と腹部に手を当て、
新しい関係を結んだばかりの小さな命に声をかけたものだった。
父を苦手に思っている西沢が麻美の家を訪れることはほとんどなかった。それ
が不満だった父は「いい加減な男だ」と言って非難したが、麻美は反論すること
はできなかった。それでも父は麻美の二十歳の誕生日にはモーツァルトやショパ
ンのCDを買ってきて「お腹の子に聴かせるといい。胎教に悪いということはない
だろう」と麻美にプレゼントした。
西沢から毎日のように電話はあったが、二人で会うことが少なくなっていった。
「忙しくなってきたので、会うひまがないよ」と言う歯切れの悪い言葉が返って
くるだけで、結婚とは名ばかりの別居生活だった。
日が落ちるのがすっかり早くなった11月の日曜日。麻美は西沢と連絡が取りた
くて、午前中から自宅の電話と携帯電話にメッセージを入れておいたのだが、何
の応答もなかった。出張ということは聞いていなかったので、何かあったのかと
心配になったが、寝ているのかもしれないと思い、午後2時ころ、電車を乗り継
いで、西沢のマンションへと向かった。紙切れ一枚に記されただけのおかしな夫
婦だと思った。
エレベーターで5階に上がり、薄暗い廊下を歩く5、6メートル先を見ると、
ドアが開いて西沢が現れ、続いて女の姿が目に飛び込んで来た。
麻美は呆然と立ち尽くして、二人を見ていた。ドアに鍵をかけ、女の腰に手を
回した西沢が麻美に気がつき動転した様子で、反射的に女から離れた。その動作
に驚いた女が「なに、どうしたのよ」と凍り付いたままの西沢の視線を追った。
麻美はめまいがして倒れそうになったが、必死に耐えてエレベーターに向かっ
た。動悸が激しくなり、震えが止まらなかった。嘔吐感に見舞われ、あわててハ
ンカチで口を抑えながらマンションを出た。気が付いたら、駅前のカフェに飛び
込んでいた。
オレンジジュースを注文してから、トイレに駆け込んだ。吐いても吐いても胸
のつかえは取れなかった。鏡の中の顔は蒼白だった。麻美は皮膚が痛くなるほど
ごしごし顔を洗いながら嗚咽した。
帰宅後の麻美は「気分が悪いので少し休む」と母に伝えて自室のベッドに身体
を横たえた。西沢と女の姿が脳裏に焼き付いてはいたが、不思議と怒りや憎悪と
いった感情はなく、あるといえばそれまで味わったことのない喪失感だった。そ
の日の出来事は自分の胸にしまっていこうと思った。そして、子どもが誕生する
まではこのまま別居結婚を続けていくしかないと考えた。
浅い眠りから覚めた麻美がバッグから取り出した携帯電話を見ると、西沢から
の着信記録が2件あり、メッセージが残されていた。
「麻美、さっきはごめん。また、電話するから」
「麻美、電話に出てほしい。また、夜に電話する」
夕食後、両親とテレビを観てから、麻美は自室に引き上げた。しばらくすると、
机の上の携帯電話が鳴った。西沢からだった。
「身体、大丈夫かい? 言い訳になるかもしれないけど、彼女とは以前つき合っ
ていたことがあって、昨日、久しぶりに飲んで終電がなくなったので家に泊めた
んだ。麻美が想像しているような関係にはないからね」
そういう言い訳もあるのだろう、と黙って聞いていた麻美は「ただ、驚いただ
け。気がついたら、逃げ出していただけ。身体のほうは大丈夫だから、心配しな
いで」と言った。「驚かせて、本当に悪かった」という西沢に対して軽く返事を
しただけで、あとは何も言わずに電話を切った。
12月に入り、腹部の膨らみが目立ち始めた麻美は大学に休学届けを提出した。
そのころには、両親との関係も自然と穏やかなものに変わった。麻美の身体を気
づかうようになり、日常会話の中にも笑いが生まれるようになった。
姉もたまに顔を見せて、西沢について「なぜ、彼は家に来ないのよ。勝手な男ね」
と非難めいたことを言ってから「麻美、もっとしっかりしなさいね」などと叱咤
激励した。
家族の結束が強くなったというのではない。過去の出来事を否定的にとらえる
より、あくまで個人が個人として現実を肯定しながら、未来の不安を解消しよう
と努めていた。
麻美は家族に迷惑をかけているという思いからは逃れられなかったが、彼女だ
けが実感できるもう一つの世界の広がりを夢想していた。新生の世界を。そこに
は恋の幻影はあっても、西沢の姿はなかったのである。
(つづく)