世の中は大型連休に突入し、連日のテレビニュースは行楽地のにぎやかな様子
を映し出していたが、芝山の生活は静かなまま、電話もほとんど鳴らなかった。
連休前に鎌倉の母から電話が来て、「時間があるなら、こっちに来たら? 明後
日は亮輔たちも来るからみんなで食事でもどう?」と声をかけられたが、芝山は
「忙しいので落ち着いたら行く」とだけ伝えた。
その連休も終わりに近づいてくると、今度は空港や主要な駅の混雑ぶりや高速
道路の渋滞の様子をテレビは伝える。毎年、同じことの繰り返しで、祭りの外に
いる芝山は残り少なくなってきた仕事を片付け、ぼんやりと過ごした。
麻美は連休を利用して家族とともに京都へ行ったのだろうか。銀座で会って以
来、彼女からは電話もメールも来ていない。すでに2週間が経過していたが、芝
山はそれほど気にならなかった。麻美のほうからは連絡してくることはないだろ
うと思っていた。
20歳だった麻美に見る情動と衝撃と決断、そして、現在の苦悩。麻美が生きて
きた時間を具体的にイメージすることはできたが、その内的世界に踏み込もうと
すると、芝山は言葉の現実から飛躍して観念の渦に巻き込まれてしまうのである。
麻美は5月に男児を出産し、晶(あきら)と命名した。それは麻美の希望だっ
た。男女の徴候が見られない子宮に眠る命の画像を見せられたとき、麻美は“水
晶の中の小さな赤ん坊Uをイメージしたのだ。男でも女でも水晶の「晶」をあき
らと読ませたかったが、父は男児の誕生を望んでいたようで、勇、剛、賢、健な
どの漢字を当てたがり、
「与謝野晶子の晶という字か。男がそれでは女っぽい。それに女があきらという
のも変だ」と納得しなかった。
西沢にも伝えると「西沢晶か。ピンとこないけど、麻美が望むのならそれでい
い」と言ったきり、名前を考えている様子でもなかった。そんな周囲の反応をよ
そに、麻美は心の中ではまだ見ぬ子どもを「あきら」と呼んだ。
いくつもの名前を考えていた父だったが、孫が生まれてみるとその可愛らしさ
に圧倒され、考えていた名前などどうでもよくなり、ごく自然に「あきら、あき
ら」と呼んでかわいがった。母もまた男児の誕生に大喜びした。53歳と47歳の
若い祖父母にとって、晶は孫というより息子のような存在となったのである。
麻美は両親に対して申し訳ない気持ちから、復学はしないでどこかに就職した
いと言ったが聞き入れてもらえず、晶の世話を母親にまかせて大学に戻った。
相変わらずの別居結婚が続けられた。
西沢は晶が誕生してから何度か家を訪ねてきたが、小さな息子を抱きながら麻
美の父と会話を交わしてもすぐに途切れ、いつも気まずそうな表情を残して帰っ
ていった。また、西沢の両親は一度だけ孫の顔を見にきただけだ。麻美と西沢と
の関係は子どもの誕生によって夫婦の絆が強くなるどころか、ますます他人行儀
でぎこちないものになり、晶の父親でありながら、西沢は黒川家とは疎遠になっ
ていったのである。
そしてついに一度も家族としていっしょに暮らすことなく、麻美と西沢は晶が
1歳になったときに離婚した。それが二人の強い希望ではなかったはずで、自然
の成り行きだった。麻美はそうなるのは仕方のないことだとあきらめる一方で、
西沢と自分がもっと強い人間であったなら、父のもとを離れて家族三人で生きて
いこうとしたかもしれないなどと思い、悔いは残った。
養育費などというものを当てにはしなかった父は西沢との関係が切れたことに
安堵したようだった。
「晶に父親がいないのはかわいそうだが、これですっきりしただろう」と言う父
がうらめしく、麻美は晶から父親を取り上げてしまったのだと忸怩たる思いにか
られた。
離婚してまもなくのことである。麻美が晶を抱きながら居間のソファに腰掛け、
両親といっしょにテレビドラマを観ていると、「男の子の成長にとっては、どん
な父親でもいたほうがいいのです」などという台詞がポンと飛び出し、父は何も
言わずにテレビを消して新聞を広げたのだ。気まずい空気が流れた。麻美はその
ときの父の表情を見て、「すべてはこの私が蒔いた種なのだ」と自分を責めた。
鈍痛を抱えながらも、小さな子どもを中心とした生活はある種の躍動感を生む
のか、麻美の家族は表面上は平和に過ごしていた。
ところが、離婚から3年後、誰もがその名前を口にすることがなくなってしま
った晶の父親、西沢秀俊が交通事故に遭ったのである。一命は取り留めたものの、
首の骨と両大腿骨を折って入院したという知らせが届いたのは、麻美が幼稚園に
勤務するようになったころで、事故から2週間が経過していた。西沢の父が電話
で知らせてきたのである。西沢は独身だった。
麻美だけでなく、父も母もショックを受けた。たとえ、離婚していたとはいえ、
晶の父親であるという点においても、見過ごすことのできない事態として受け止
めた。
麻美は母と二人で見舞いに行った。ベッドに寝たきりの西沢は麻美の顔を見て、
わずかに微笑んだ。西沢の父の話では、雨の夜の走行中に車がスリップして、対
向のトラックに衝突したという。頚椎損傷で車椅子の生活を余儀なくされるが、
頚髄のほうに損傷がなかったことは不幸中の幸いだったと力なく語った。
病院をあとにした母と娘は無言で歩いた。西沢の変わり果てた姿が麻美の脳裏
に焼き付き、またひとつ暗い影が忍び寄ってきたことを感じた。その後、麻美は
父に内緒で一度だけ西沢を見舞った。
そして半年後の春の日、西沢の父が黒川家を訪ね、麻美に息子との復縁を願い
出たのである。麻美と両親は驚きの表情を隠せなかった。麻美が何か言おうとす
るのを制して父は「申し訳ないが、いまさらそれはできないです」と努めて冷静
な態度で応えた。しばらく沈黙が流れたが、西沢の父は息子の元気な様子を伝え、
さらに晶に会いたがっていることを付け加えた。そして「復縁は無理でも、せめ
て晶くんに会わせてほしい。血の繋がった親子なのだから」と頭を下げた。しか
し、麻美の父は頑なに拒み、西沢の父親は帰っていった。麻美の気持ちは揺れ続
けているのである。
芝山は麻美との出会いから半年も経っていないことに気づく。青山で食事をした
夜、晶が怪我をしたという日。芝山が狐につままれたような夜。
「わたしは逃げたかったんです」と言ってタクシーに乗り込んだときの麻美を芝
山は思い出していた。
そうだ、逃げればいいのだ。完璧な逃亡というものはどこにもない。だから、
逃げたいときは、逃げればいいのだ。それは刹那でもなく、醜くもなく、終わり
でもない。芝山は心の中で叫びながら目を閉じた。まぶたには麻美と晶の顔が映
った。
夜9時すぎに電話が鳴った。ぼんやりテレビのニュースを観ていた芝山は麻美
であればいいなとほのかに期待したが、すぐにその思いを打ち消して受話器を取
ると
「あら、いないかと思ったらいたのね」
いきなり美佐子の声で気が抜けた。
「普通、いないと思ったら電話なんてしないだろう」
芝山は軽口をたたき、久しぶりに自分の声を聞いたような気がした。
「いま、家にひとりなの。父と母はヨーロッパに旅行中よ。ユースケ、じゃなか
った祐輔さんはお仕事していた?」
「いや、ぼーっとしていたところだよ」
「この前は銀座でばったり会ってびっくりしたわ。いっしょにいた女性は祐輔さ
んの新しい彼女?」
いきなりこういう聞き方をしてくるのは、美佐子の率直さなのか、豪胆さなの
か。芝山は相変わらずだなと苦笑する。
「新しい愛読者というところかな」
「わ、愛読者とデートなんて、珍しいじゃない。なんか、あやしいわね」
ふふふと笑って茶化す美佐子である。
「熱心な愛読者は大切にしたいから」
「ふうん、なるほどね。ますますあやしい。彼女、美人だけど、祐輔さんのタイ
プじゃないわよね。底なし沼に咲く黒ユリみたいで、どこか暗い感じ」
「なんだい、その表現。センスあるのか、ないのか。ま、昼間だったら、もっと
明るく見えたのかもしれないな」
美佐子が電話の向こうではじけるように笑った。
「そんなにおかしい? でも、おれのタイプじゃないって、なんでそう決めつけ
るのかな」
「あなたの好みのタイプは少し派手でクールな女。たとえば、わたしみたいな。
っていうのは冗談だけど、女の直感よ。気をつけたほうがいいわよ。彼女、芯が
強い? 当たらずとも遠からず、でしょう?」
「さあ、どうかな。よくわからないな」
「彼女、23歳ぐらい?」
いちいち応えるのが面倒なのだが、美佐子と会話を交わしているのが意外にも
楽しいと感じていた。いや、誰かと話がしたかっただけなのかもしれないが。
「今年で26歳になるのかな」
「あら、はずれた。それで、お仕事は何をしているの?」
「だから、おれの愛読者」
美佐子はケラケラ笑いながら「面白い。祐輔さんにしては珍しいジョーク」と
からかう。麻美の噂をするのは少しばかり気がひけたが、美佐子は初めて彼女を
目撃した人間というわけで、その感想は興味深かった。
「ところで、話したいことがあるって言ってたけれど、何?」
「わたし、結婚することにしたのよ」
「それはよかった。再婚、おめでとう」
「やだー、再婚おめでとうだなんて、なんだか急に年取ったみたい。でも、驚い
たでしょう?」
「いや、ちっとも驚かない。この前、いっしょにいた人が再婚相手なのかい」
「彼はわたしの部下なのよ。ミーティングが終わったところだったの。それでね、
今度、彼に会ってくれない? いっしょに食事をしたいのだけれど」
「彼って、きみの再婚相手に? なんで、元亭主のおれが会わなきゃならない」
「だって、彼があなたに会いたいって言っているのよ。あなたの愛読者で、小説
を書いているの」
まったくおかしなカップルだ。どうかしている。美佐子が結婚すると言っても
特に驚かなかった芝山もさすがにあきれてしまい、思わず、そんな男との結婚は
やめてしまえと言いたくなった。
「悪いけど、遠慮しておくよ」
「祐輔さん、冷たいな。美人の愛読者となら会うっていうのね」
「そういうわけじゃないけど、おれと何を話すことがあるのかな。それとも、き
みは何かを画策している?」
「まあ、画策だなんて。ただ、彼があなたに会いたいというから、会わせたいだ
けじゃないの」
「それじゃ、気が向いたらってことにしておこう」
「わたし、彼に会わせるって言ってしまったんだけどな」
芝山は「相変わらずだな」と笑ってから、
「いまは約束できないから、彼には忙しくて会う時間がないとかなんとか言って
おけばいい」
美佐子は不満そうに返事をして電話を切った。
にぎやかな声が消えて、再び静かな時間が流れた。
唐突で強引な美佐子の電話だが、芝山は不快ではなかった。噛み合わない会話
はどちらも忌憚のない物言いで、それはそれでけっこう楽しいものだ。それにし
ても、麻美のイメージが底なし沼に咲く黒ユリとは、言い得て妙であるなと芝山
は思った。
翌日、昼過ぎに目を覚ました芝山は軽い食事をとったあと、洗濯機を回しなが
ら散らかっていたキッチンやリビング、仕事部屋の掃除をした。そして、食料品
や雑貨のまとめ買いをするため久しぶりに車を走らせた。
多摩川の近くにあるショピングセンターの1階と2階を回り、キャスターを押
しながら食料品や雑貨品をカートに入れていった。会計を済ませ、両手にずっし
りと重い4つの紙袋をぶらさげてエレベーターで駐車場に出た。米や缶詰、瓶詰
めなどが入った袋の重みで紐が指に食い込んで痛かったが、これで2、3週間は
買い物に行かなくて済むだろうと思った。
トランクに買い物袋を入れ、運転席に座った芝山はシートベルトを装着してか
ら、しばしハンドルを握ったままぼんやりとした。ふと、「こんなでかい車、売
ってしまおうかな」と思った。
のどから手が出るほどベンツが欲しかったわけではないが、一度は乗ってみた
いという軽い気持ちに勢いがつき、手に入れることができた。ただ、粋がってい
ただけなのだろう。「クールでマイペース、ときにわがまま」などと言われても、
芝山はそれを作品の評価とは関係ないことだと自負していた。それだけあの頃は
すべてが好調だったのである。エンジンをかけ、ハンドルを切った芝山は国産車
に買い替えることに決めた。
オレンジ色に染まった空が美しい。「テキーラ・サンセットってきれい」とう
れしそうに言った麻美の声が甦り、そして消えた。車は多摩川を渡り、どこまで
も走った。 (つづく)