rensai画像 (33)

 5月も半ばを過ぎると、気まぐれだった春の天気もようやく落ち着きだし、さ
わやかに吹き渡る風は、香りを運んでくるかのようである。
 芝山は昼下がりの公園を歩いていた。木々の新緑のあざやかさが匂うばかりに
感じられ、手入れの行き届いた花壇には色彩豊かな空気が漂っていた。久しく花
を意識して見ることなどなかった芝山の目に飛び込んできたのは、ワインカラー
のクレマチスの花だった。

 芝山がこの花の名前を知ったのは高校2年の冬だった。
 昼休みの廊下を一人で歩いていると、クラスメートの女子から「ねえ、今度の
日曜日、いっしょに映画を観に行かない?」と誘われた。突然だった。それほど
親しいわけでもないのにと不思議に思った。
「招待券が2枚あるのよ。私と観るのがいやなら、別々に観よう。1枚、あげる。
この映画、芝山くんなら気に入ると思うから。感想も聞きたいし」と招待券を押
し付けられた。観たいと思っていたイギリス映画の券だった。芝山は照れながら
受け取り、「サンキュー。ぼくは渋谷の映画館がいいな。きみは?」
「わたしも渋谷がいい」
「だったら、現地集合で決まり」
「わ、うれしいな」と彼女はニコニコしながら「初回がいいよね。時間を調べて
おくね」と言い、風のように去っていった。
 約束の日曜日、芝山は彼女と並んで映画を観た。映画館を出てから二人は雑踏
の中を無言で歩いた。
「あー、泣けちゃったな」とつぶやく彼女に「うん。ぼくもちょっとジーンとき
た」と芝山は返した。
 それから、二人はアートコーヒーでサンドイッチを食べながら映画の感想を言
い合っているうちに意気投合し、本の話にも及んだ。ふと、彼女はショルダーバ
ッグから分厚い本を取り出して「いま、これを読んでいるのよ」とテーブルの上
に置いた。それは世界文学全集の1冊で、トーマス・マンの『魔の山』だった。
芝山は少なからずショックを受けた。まだ読んでいなかったからだ。
 芝山は本を手に取り、「これを読むには根気がいるだろうな?」と言いながら、
パラパラとページをめくった。すると、大きな6弁の押し花が現れた。
「あれ、押し花だね。これはなんていう花?」
「クレマチスっていうの。それはもともと紫色だったんだけど、変色しちゃった
のね」
「クレマチスか。クレーとマチスの合体。つまらないダジャレだね」
「つまらなくないよ。芝山くんらしいね。このクレマチスはうちの庭に咲いてい
たものなんだ。死んだおばあちゃんがずうっと育てていたの」
「きみのおばあさん、いつ死んだの?」
「去年の4月。でね、四十九日のころに、クレマチスが咲いたので、押し花にし
てみたんだ」
「そうか。今年も咲くんだね。咲いているところを見てみたいな」
「クレマチスはどこにでも咲いているみたい。隣のうちの庭でも毎年咲いている
よ。5月の半ばころかな、うちの庭にたくさん咲くの。白いのもあるし、きれい
だよ。あ、クレマチスが咲いたら教えるからうちに見にくれば?」
「うん、見に行こうかな」
 芝山は本気で見てみたいと思った。
 翌日、学校へ行くと、二人で映画を観たことがクラスの話題になっていた。
「芝山はああいうのが好みだったんだ。女子の連中が騒いでいるよ。あいつ、ち
ょっと変わっているだろう。なんかさ、髪は短いし、やせて背が高いし。女の子
らしくないんだよな。つき合っているわけ?」と口の悪い男子にからかわれた。
芝山は憮然として、「映画の招待券をもらっていっしょに観ただけで、別につき
合っているわけじゃない。誰と映画を観ようが、ぼくの勝手だろう」と言ってし
まってから、少しむきになっている自分に気がついた。
 その日以来、芝山は彼女を意識するようになったのだが、彼女のほうは芝山に
声をかけられてもどこかうつろで、目を合わせようとしないばかりか、避けるよ
うになったのである。「女の子というのは、よくわからないな」という感想を持
ったが、その後、彼女がよそよそしい態度をとるに至ったわけを知ることになる。
 当時から何かと目立つ存在だった芝山は女子に人気があったため、クレマチス
の彼女は一部の女子たちから嫌がらせを受けていたのだった。「抜け駆けはよく
ない」「あんたには似合わない」「映画に誘うなんて図々しい」といった一部の
女子によるレベルの低い陰湿な忠告である。芝山は女の意地悪を感じると同時に、
そんな女子たちの雑音で態度を変えるのは彼女らしくないなと思った。
 3年に進級すると彼女とは言葉を交わすことなく別々のクラスになり、ますま
す距離が遠のいた。しかし、芝山は彼女の言ったことを忘れてはいなかった。
「クレマチスが咲いたら教えるから、うちに見にくれば」
 芝山は何とかそれを実現したいという思いが強かったので、廊下で彼女の姿を
見つけるとこう告げた。
「クレマチスの花は咲いた? きみのうちの庭へ見に行きたいのだけど」
 彼女は一瞬、驚いたふうだったが、「咲き始めたけど、クレマチスはどこにで
も咲いているから、見ることができるわよ」と無表情をつくろった。
「冷たいな。きみのうちの庭のクレマチスが見たい。おばあちゃんが育てたとい
うやつを」
 芝山の言葉に彼女の表情は柔らかくなり、「覚えていてくれたんだ。けっこう、
うれしいな」と言ってから「今度の日曜日の午後2時、経堂の駅の改札を出たと
ころで待っていて。迎えに行くから」と早口で告げて風のように去っていった。
芝山は呆気にとられて彼女の後ろ姿を見ていた。

 経堂の駅には約束の時間よりも10分ほど早く着いたが、改札口に水色のTシャ
ツとホワイトジーンズ姿の彼女が立っているのが見えた。芝山に気がつくと、彼
女はいつかのようにニコニコと笑った。
 二人は互いの読書中の本の話などをしながら商店街を通り抜けた。さらに10分
ほど歩いたところに彼女の住む家があった。それは洒落た2階建ての家で、庭に
は松の木や低木が何本も植えられ、花壇にはバラをはじめいろいろな花が咲いて
いた。
「これがクレマチスよ」
 彼女が指をさした花は紫色をしていたが、白やピンクの花もあった。花びらが
6枚のとてもシンプルな形状で、どこか頼りなげな感じである。芝山は初めて見

たクレマチスの感想をそのように伝えると、彼女は「鉄線とも言うんだって。押
し花にするにはちょうどいいでしょ。栞にもなるしね」
 そして芝山の視線は白いバラに釘付けになった。上品な微笑みをたたえた完璧
な美しさだった。
「白いバラってきれいだね」
「うっとりするでしょう。ちょっとすました顔してね。でも、わたしはクレマチ
スのほうが好きかな。うちには咲いていないけど、青いけしの花はもっと好き」
 彼女に誘われるまま家の中に入ると、「いらっしゃい」と母親に声を掛けられ、
芝山はあわてて挨拶をした。彼女と同様にすらりと背が高く、顔もよく似ていた。
芝山の来訪は伝えられていたのだろう。「おやつは部屋で食べるでしょう」と紅
茶とケーキがのった盆を彼女に持たせた。
 彼女の部屋はまるで男子の部屋のようだった。女の子が好みそうな装飾類は皆
無で、勉強机とベッドと本棚、それにオーディオセットとレコードラック。壁に
アコースティックギターが立てかけられていた。
「きみはギターを弾くんだ」
「少しだけね。そのギターは上のアニキからのおさがりよ」
 芝山は本棚に並ぶ本やラックのレコードに興味を示し、順番に見ていった。芝
山の知らない海外の翻訳本や知っていてもまだ読んでいない本が何冊もあった。
レコードのほうは、ロックやジャズやクラシックなどが混在していた。
「ジャズ、聴くんだ」
「うん。上のアニキの影響。ピアノでジャズが弾けるようになりたいな。あ、ビ
ル・エバンスを聴こうね」
『ポートレイト・イン・ジャズ』のジャケットからレコードを取り出してターン
テーブルにのせる仕草を見て、芝山には彼女が自分よりずいぶんと大人に見えた
のだった。
 盆を床に直置きして、紅茶を飲み、ケーキを食べながら、二人は本や音楽の話
に夢中になった。芝山にとっては、男子生徒と気軽に話をしているような感覚だ
った。気がつけば、4時を過ぎていた。
「駅まで送っていくね」という彼女に「道順はわかるから大丈夫さ。ありがとう。
楽しかったよ」と告げて階段を降りた。「また、遊びにいらっしゃいね」と微笑
む母親とその娘。一礼をして外に出た芝山は庭に咲くクレマチスの花をしっかり
と目に焼きつけたのだった。

 その後、彼女とは校内で会っても挨拶を交わす程度で、二人で会う機会をもつ
ことはなかった。学校という枠の中では、芝山も彼女も雑音を振りはらうことが
できなかったのだ。
 そして夏の終わり、彼女は父親のイギリス転勤に伴い、日本を離れることにな
った。芝山は彼女と母親の顔を思い浮かべて、イギリスの生活が似合いそうだな
と妙に感心する一方で、庭のクレマチスはどうなってしまうのだろうかと少しば
かり感傷的になってしまったものである。
 あれから20年近くの時が流れていた。クレマチスの花を目にすると彼女との思
い出が甦る。恋というものではなかったにしても、大学時代に知り合っていたら、
仲のいい友人になっていたかもしれない。あるいは、軽薄な自己主張をしない彼
女が男であったなら、気の合う仲間の一人になっていただろう。それもこれも淡
い夢と消え、時だけが流れていったのである。
 公園のベンチに座って目の前の光景をぼんやり眺めているうちに、あっという
まに時間が過ぎた。芝山はおもむろに立ち上がり、ため息にも似た大きな深呼吸
をして歩き出した。

 マンションに戻ると、ファックスが届いていた。青森県にある市立図書館から
の講演の依頼書だった。テーマは「文学の授業」で、開催は11月とあった。依頼
文の末尾に「ご都合はいかがでしょうか。ご連絡いただきますようお願いいたし
ます」とあり、企画担当者の名前が記載されている。時折、取材依頼書がファッ
クスで送られてくる。それには必ず「追ってご連絡します」という一文が添えら
れているものだが、それはちがった。連絡を乞うというものである。おそらく、
この担当者は慣れていないのだろう。芝山のほうから連絡するつもりはなかった。
過去に何度か講演依頼を受けたことがあったが、いずれも断ってきた。性に合わ
ないと思っていたからだ。
 食事の準備でもしようとキッチンに立っていると、電話が鳴った。G出版社の
編集長からで、一度、会いたいというものだった。主に実業書を手掛けているG出
版社とは一度も仕事をしたことはなく、「なんで、おれなの?」と芝山には意外
な感じがしたが、会うだけ会ってみようと思ったので、指定された日時に出向く
ことにした。
 目下、芝山が抱えている仕事は、10月に創刊される女性誌の連載エッセイだけ
だったが、なぜか焦りのようなものはなかった。締め切りまであと2週間。女性
編集長の要望は一人称で書くストーリー性のあるエッセイだった。当初は編集長
の意向を汲んでいろいろなアイデアが浮かんだが、いまはすべてを白紙の状態に
戻していた。
 女性誌だからといって、恋愛の話にこだわるつもりはなかったが、やはり男と
女の怖いオチがつく話がおもしろいのではないか。怖くて皮肉なオチが必ずしも
アンハッピーな結末であるとはいえないからだ。芝山は読者の淡い期待を裏切る
ようなエッセイを書いてみたいという衝動にかられていた。

 夕食後の9時に電話が鳴った。札幌に転勤した野村からだった。
「4日前にこっちに来たけど、朝晩、けっこう寒くてたまらんよ」
「札幌のどの辺に引っ越したのかな」
「円山公園だよ。2Kのマンションさ」
「いいところだな」
「勤務先まで3駅で、便利だよ。休みの日は公園散歩でもするさ。芝山のほうは
どうだい?」
「相変わらず仕事は減る一方で、秋に創刊される女性誌の連載だけだよ。まあ、
ぼちぼち書いてはいるけどね」
「そうか。で、彼女とはどうにかなりそうか? 子持ちの雪女とのロマンス」
 麻美のことを言っているのだろう。それにしても野村の口から飛び出た「子持
ちの雪女」とは、ロマンスもなにもあったものではない。芝山は1か月前、酒の
席で野村に聞かせたことを思い出し、恥ずかしくなってしまった。
「どうにもなっていない。愛読者だからね」
「嘘つけ。この前の芝山の様子は変だったからな。ラブであるね。人妻なら問題
だけど、いいじゃないか、子持ちの雪女。おもしろい展開を期待しているよ。事
実を小説にしちゃえばいいさ。私小説っていうやつか」
「イメージは膨らませることはできるけど、現実は別だからな」
 芝山は野村の直球をかわして、札幌の街や彼の子どもの話へと転じ、30分ほど
喋ってから電話を切った。

 午前1時、芝山がパソコンに向かってエッセイの原稿を書いていると、電話が
鳴った。こんな遅い時間に誰だろうといぶかりながら子機を取った。「芝山です」
と応じるが、返事はない。さらに「もしもし」を繰り返したが、明らかに先方は
息づいていて、こちらの様子をうかがっているような気配が伝わってくる。間違
い電話ではないことがわかった。芝山はすっきりしない気持ちで受話器を置いた。
久しぶりの無言電話である。心当たりがないときには、誰かのいたずらだろうと
判断して、気持ちを切り替えることにしていた。
 10分後、再び電話が鳴ったので子機を取る。やはり、無言である。芝山は何も
言わずに、電話を切った。
 その後、電話はかかってこなかったが、芝山はキーボードを打ちながら、ふと、
電話の主は麻美ではなかったのかと思った。ありえないことではない。無言電話
というのは気持ちのいいものではないが、当人に電話で相手と話をしたいという
本音があっても、呼び出し音が鳴っている間に生じる迷いとタイミングの悪さか
ら言葉が出なくなったのかもしれない。中途半端な迷いは厄介だ。
 それより何より、芝山は麻美が自分からの電話を待っているのかもしれないと
いうことに気がついた。麻美の無言は、それが精一杯の、ぎりぎりの気持ちの表
れなのかもしれない。思わず、芝山は携帯電話を握りしめていた。しかし、それ
が自分の勝手な思い込みなら、麻美の眠りを妨げることになってしまうだろう。
芝山は思いとどまり、再びパソコンに向かった。         (つづく)

                           

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