rensai画像 (34)

 夜がしらじらと明けてきたころ、芝山はパソコンをオフにしてベッドに横たわ
った。深夜の無言電話のあと、ひたすら原稿を書き続けていたので、さすがに疲
労を覚えた。
 女性誌の創刊10周年記念号からスタートする連載エッセイの原稿である。第1
回は1枚の絵画をめぐる男と女のミステリアスな話にまとめてみた。
 当初、打ち合わせのときに聞かされていた編集長の「エッセイでもショートス
トーリーでもない一人称で書く話」という意向に添えたかどうかはわからないが、
芝山は「ぼく」を登場させて「ぼく」の特殊な体験として書いた。最初は、「ぼ
く」という一人称が恥ずかしく、多少の抵抗があったものの、書いていくうちに
それはどうでもよくなり、あたかも芝山自身の体験でもあるかのようなエッセイ
に仕上がった。予定の4000字をオーバーしてしまったが、推敲を重ねてから、い
まごろはイギリスにいるはずの編集長から知らされていた編集者宛てにメールで
送った。
 芝山は天井を見上げながら、第2回以降のエッセイのモチーフに考えを巡らせ
ているうちに急激な眠気に襲われた。薄くなっていく意識の下にさまざまな事象
や言葉が散乱し、何をどう捉えていいのか、わからなくなって眠りの底へと落ち
ていった。

  3時間ほど眠っていたのだろう。夢の途中で起きた。夢の結末を拒絶しながら
現実に戻った芝山はベッドから起き上がり、急いでシャワーを浴びた。熱いシャ
ワーの飛沫にさきほどの夢の断片が散った。
 なぜ、あのような恐ろしい夢を見たのか。
 薄暗い地下室に閉じ込められたのは芝山自身であり、男のうなり声のする方へ
近づいていくと、かすかに人影がぼんやりと見え、それはうずくまっているよう
だった。芝山が声をかけると、男は振り向きざまに「アサミニアワセテクレ」と
叫んだ。芝山の知らない老人の顔だった。あわててその場を離れようとしたとた
ん、何かにつまずいて転んだ。なかなか起き上がれないでいると、老人に右の足
首をつかまれ、払いのけようともがいているうちに目が覚めた。正確には眠って
いる芝山が夢のストーリーを中断させた。現実に戻っても「アサミニアワセテク
レ」という生々しい叫び声は耳に残ったままであり、何かの暗示のようにも思わ
れた。
 最近、気味の悪い夢ばかり見る芝山である。夢に登場するのは出会ったことの
ない人間や風景で、いずれもザラッとした皮膚感覚を呼び覚ますような夢ばかり
だ。眠りが浅いせいもあるだろう。あるいは、黒川麻美との出会いも影響してい
るのかもしれない。そもそも麻美との出会いのきっかけは「芝山の見た夢」なの
だ。声をかけたのは芝山のほうからだったが、夢を媒介にして出会った。そのこ
とに気が付いて、芝山は軽いショックを覚えた。

 昼のニュースを見てから、芝山は麻美の携帯に2度電話してみたが、呼び出し
音が虚しく鳴るだけで、留守番メッセージを入れたくてもそれは可能にならなか
った。しばらく待ってみたが、やはり携帯は鳴らなかった。
 ベランダに出てみると乾いた風が心地よく、見上げると雲ひとつない空が眩し
い。特に出かける用事はなかったが、芝山はブルーのシャツとオフホワイトのパ
ンツに着替え、小型のショルダーバッグを下げて外へ出た。すると、同じマンシ
ョンの住人と出会った。50代前半とおぼしき品のいい顔立ちの女に「行ってらっ
しゃい」と声をかけられたので、芝山は会釈をして通りすぎた。
 近くの公園までブラブラ歩いた。公園には小さな子どもを連れた若い母親たち
の姿が目立った。ほとんどが近所同士の同世代で、公園の散歩が日課になってい
るのだろう。そんなグループがあちらこちらに散在していた。
 芝山の目はベンチに座っている茶色の長い髪の女に釘付けになった。彼女は左
手で携帯の操作に夢中になっている一方で、右足をベビーカーのタイヤ部分に引
っ掛けてそれを前後に動かしているのだ。ぐずる赤ん坊を寝かしつけているのか、
それにしても器用な右足だなと感心しながら、芝山はさりげなくベビーカーに近
づき中をのぞくと、赤ん坊はすやすやと気持ち良さそうに眠っていた。「揺りか
ごをゆらす手」というサスペンス映画があったが、ここでは「ベビーカーを揺ら
す足」ということになるのか。芝山はあきれるどころか、彼女のユーモラスな発
想に脱帽した。家の中でも彼女の器用な手足は奇想天外な子育てに奮闘している
のだろうか。
 その場を離れてさらに歩いていると、芝生にしつらえた遊具で遊ぶ幼稚園児の
集団が芝山の目に入った。黄色の帽子をかぶった子どもたちが歓声を上げて遊び
に興じる光景を興味深く眺めていると、芝山は一人だけ群れから離れている男の
子の姿に気がついた。ベンチに腰掛けている老人のものとおぼしき自転車の前に
しゃがみ込み、そのペダルを右手でもくもくと回しているのだ。老人のほうも孫
のひとり遊びでも眺めるように悠長な佇まいである。おもしろい光景だった。芝
山はその男の子に麻美の息子の晶が重なって見えた。いまごろ、晶は何をしてい
るのだろうか。花見で会った晶の表情、小さな手の温もりが蘇った。

  公園を抜けて駅の方向へ歩いた。狭い歩道を走る自転車に後ろからベルを鳴ら
され、芝山はどきっとした。自転車の走行のために左か右へ体をよけなければな
らないのが億劫だが、振り向かずに右へ体を移動してみると、タイミングが悪か
った。再びベルを鳴らされたあげくに、自転車に乗った若い女が小さく舌打ちし
て通り過ぎていった。
 芝山は歩きながら青山に行くつもりになっていたが、駅に着いて気持ちが変わ
り、逆方向の電車に乗った。久しぶりに横浜をぶらぶらしてみようと思いつき、
自由が丘で東横線に乗り換えた。平日の昼間ということもあり、車内は比較的空
いていた。芝山が座った向かいには3歳くらいの男児が背中を向けて座り、まる
でヤモリのように両手を広げて窓ガラスにへばりついて、走る風景に夢中だった。
子どもは天然だなと思う芝山はその子どもの後ろ姿を飽きずに眺めた。
 何気なくショルダーバッグのポケットから携帯電話を取り出してみると、着信
履歴に「黒川麻美」が表示されていて、芝山の気持ちは弾んだ。2時20分。10分
ほど前の着信だったので、元住吉のホームに降りて折り返し発信した。呼び出し
音が3回鳴ってから「こんにちは」の声が耳に届いた。ほぼ1カ月ぶりに聞く麻
美の声だった。

「電車の中だったので出られなくてごめん」
「こちらこそ、さきほどお電話いただいていたのにすみません。ご無沙汰してい
ます」
「いま、話していいのかな?」
「はい、大丈夫です。そろそろ出ようかと思っていましたから」
「特に用事というわけでもなかったのだけれど、あれからどうしているのかなと
思って電話したんだけどね」
 そう挨拶してみて、「あれから」というひと言が余計だったなと感じたのは、
一瞬、電波が中断したのかと思うような間があったからだ。「もしもし、聞こえ
ている?」と確認してみると、
「こちらは元気です。いま、芝山さんはどこかの駅にいるんでしょう?」
「元住吉のホームだよ。きみのほうは、仕事が終わるのが早いね。これからの予
定は?」
「仕事の用事でちょっと外出します」
「何時に終わるのかな。ぼくは横浜に向かっている途中なんだけど、来られない
よね」
 再び、微妙な間があく。麻美が返答に窮しているのかどうかはわからない。
「用事を済ませたら、晶を迎えに行って帰宅する予定です」
 麻美の事務的な口調から、周囲に誰かいて話しづらい状況にあるのかと勘ぐっ
たが、そうでもないらしい。
「そうか。いきなり横浜までは、無茶だね。晶くんは、元気かな」
「はい。元気にしています」
 どうして麻美は必要最低限の受け答えしかできないのだろうか。それとも自分
の言い方が気に入らないで機嫌をそこねているだけなのか。
「それじゃ、今度、都合のいいときにでも会おう。また連絡してもいいかな」
 返事はなかったが、麻美の息づかいがかすかに聞こえるようだった。このまま
電話を切っていいものかどうか様子をうかがっていると、麻美の口をついて出た
のは、
「いつも気にかけていただきありがとうございます。とても感謝しています」
 まるで音声ガイドのような抑揚のない言い方に、芝山は戸惑った。麻美の気持
ちは電波には乗れないようにできているようで、あとは事務的に応えて電話を切
るだけでよかったのだ。
「それじゃ、近いうちに電話を入れるよ」
「はい、わかりました。お仕事、頑張ってください。新刊が出るときにはお知ら
せください。では」
 そこで電話は切れた。芝山の携帯は折り畳まれ、何事もなかったようにツルン
とした表情でショルダーバッグのポケットに収まった。
 麻美の紋切り型の口調に、少なからずショックを覚えた芝山はぼんやりと電車
が来るのを待った。

 横浜の中心街は避け、根岸線に乗り換えて関内で下車した。久しぶりの関内で
ある。数年前、横浜球場の近くにあるライブハウスでジャズの演奏を聴いて以来、
ここには足を運んでいない。それ以前は、東京よりも横浜の雰囲気が気に入って
いた時代があり、もっぱらガールフレンドと散歩デートを楽しむことが多かった。
また、広告代理店に勤務していたころは、得意先の営業マンの親戚の男が横浜ベ
イスターズの投手をしているという縁から、何度か野球観戦に訪れている。いま
となっては懐かしい思い出である。
 みなと大通りを海岸に向かって歩いた。風に乗ってかすかに潮の香りがする。
日暮れの光線の中の霞がかかったような風景に麻美の姿が甦り、複雑な気持ちの
まま芝山は歩き続けた。
 古い石造りのカフェが目についた。外から眺めた窓際の席はいずれも女性客や
カップルに占領されているようだったが、芝山は木製のドアを押して中に入った。
壁側の3つのテーブルも埋まっていたので、カウンターのいちばん奥の席に座り、
コーヒーのブラジルを注文する。
 静かにジャズが流れていた。
 芝山はさきほどの電話のやりとりを思い出す。麻美の事務的な口調が気になっ
た。麻美はおれを拒否しているのだろうか。おれは彼女に電話をするべきではな
かったのか。あるいは、しばらく電話をしなかったことに麻美は機嫌を損ねてい
たのか‥‥。などと自分本位に思いを巡らせているうちに、それらはどうでもいい
ことにようやく気づくのである。
 彼女が抱え持つ現実的な悩みの深さについて考え始めると、芝山は袋小路に迷
い込んでしまったような閉塞感に襲われた。
 麻美の心は揺れているのである。夫だった西沢の父親が麻美に息子との復縁を
迫ってきたこと。それが無理ならせめて孫の晶を息子に会わせてほしいと懇願さ
れたこと。本来ならば、それらを丸ごと受け入れる道理はないのだが、拒絶する
ことに良心の呵責を感じて、麻美はどうすべきか悩んでいた。
 果たして、あれから彼女の日常に変化は訪れたのだろうか。一つの結論を導き
出したのだろうか。電話からは何も伝わってこなかったが、むしろ素っ気ない対
応に変化が表れたと見るべきなのか。
 不意に「アサミニアワセテクレ」と夢の中で叫んでいた男の声が甦ってきて、
芝山はハッとなった。あれは西沢を象徴するものだったのだろうか。夢がシグナ
ルを送ったのか。

「お待たせしました。ブラジルです」
 マスターがカウンターに置いたコーヒー碗皿に目を奪われた。ひねり技法の白
磁にアボリジニの伝統美術を生かしたカップは持ち上げてみるととても軽く、丸
皿のほうにも同配色の四角い枠取りが施してある。思わず、芝山はマスターに声
をかける。
「このカップ、素敵ですね」
「ありがとうございます。昨日、届いたばかりなんですよ。たまにこういう有田
も新鮮ですね。どうぞごゆっくり」
 マスターのこだわりなのだろう。カウンターの棚にはさまざまな磁器のコーヒ
ー碗皿が並んでいた。
 芝山はその一目惚れしたカップでコーヒーを味わった。味も香りも申し分なか
った。芝山は陶器よりも磁器が好みだった。高温で焼く磁器は硬くて軽量であり、
指ではじくと涼やかな金属音がする。一方、陶器は素朴な温かさは感じられるの
だが、脆くて欠けやすい。しかも、茶碗に口をつけたときの感触には大きな違い
があり、薄くてなめらかな磁器の茶碗はすっきりとした感触だが、陶器はぼてっ
とした感触が残り、芝山は苦手だった。陶器の土の温かさよりも、磁器の凛とし
た冷たさを好んでいたのである。
 芝山はショルダーバッグから1冊の本を取り出した。それは数年前にイギリス
の文学賞を受賞した長編小説だった。刊行されてすぐに読んだものだが、存在す
ら忘れていたのだ。
 その本のことを思い出したきっかけは、やはり麻美だった。彼女の告白を聞い
てから、ふと似たようなシチュエーションがどこかにあったということに気づい
た。それはどこかの誰かの話ではなく、海の向こうの小説だったのである。交通
事故で車椅子の生活を余儀なくされた夫を支える妻、その妻に思いを寄せる青年。
いびつな三角関係に発展していく物語は一つの死をもって完結するのだが、その
先にあるはずの物語が気になる作品だった。一部の読者にとっては不完全燃焼だ
ったかもしれないが、芝山は作者の死生観に共感できた。再読するつもりはなか
ったのだが、それを本棚に探した芝山だった。
 本を開いて目は活字を追うのだが、麻美のことが気になり集中が途切れる。

  あの日の麻美は西沢の父親からの要求に対して、どうしていいのかわからない
と言い、混乱していることを告げて芝山に意見を求めた。
「もし、芝山さんがわたしの立場なら、どうしますか?」
 その問いかけに芝山は困ったような表情を見せると、
「すみません。わたしの聞き方が悪かったです。もし、芝山さんが書く小説に登
場する女が、わたしのような選択を迫られているのだとしたら、どんな展開にし
ますか?」
 芝山はその突飛な発想に驚いた。困難な現実問題の矛先が書いてもいない小説
へと向けられたのだ。細かな人物設定のない状態で、復縁するか否かについて即
答できるものではなかった。それは別な次元の話である。
「ぼくが書く小説はどうでもいいことだよ。もし、ぼくがきみだったら、まず復
縁はしないだろう」
 それは麻美が満足するような答え方ではなかったのだろう。麻美は気が抜けた
のか、薄く笑ってこう言った。
「すみません。わたしのほうから一方的に話をして、芝山さんに意見を求めよう
とするなんて変でした」
  そのときの芝山は麻美を無関係な存在としてとらえることはできなかったし、
少なからず彼女の力にはなりたいとも思った。しかし、いずれ選択するのは麻美
自身である。正確に言えば、麻美の場合は両親と話し合って決めることだったの
だ。

  あの日以来、芝山は麻美に聞かされた事実について考えて続けてきた。あるい
は、麻美が抱えた問題から派生するさまざまな苦悩や葛藤、そして晶の将来につ
いて考えてきた。まるで、考えることが日課のように。しかし、芝山は1カ月近
くも麻美に電話をしなかった。いや、力になりたいと思いながら、電話をするこ
とができなかったのだ。電話を待っていた麻美にとって、芝山から電話がこない
ということの意味するものは「拒絶」だったのかもしれない。深夜に電話の向こ
うで言葉を失っていたのは麻美だろう。芝山はそう確信していた。無言電話は麻
美の揺れる心情が伝わるものだったのだ。
 雪の日に麻美と出会ったときの新鮮な気持ちを芝山は思い出す。愛読者に対し
て初めて自発的な行動に出たのは、彼の好奇心の素地からきたものでもあった。
やがて、麻美の隠微な側面が浮き出てくるようになると、無意識のうちに彼女と
の間に曖昧な距離を保ちながら現実を受け入れた。一方で、それを虚構に塗り替
えようとするもう一人の自分もいたのだ。そして、麻美もまた一つひとつの事実
を芝山に語ることによって、虚構の世界に迷い込んでしまっているのではないだ
ろうか。
 麻美の不可解な問いかけが甦る。
「芝山さんが書く小説に登場する女がわたしのような選択を迫られているのだと
したら、どんな展開にしますか?」
 麻美はどこを向いているのだろうか。いや、何を求めているのだろうか。そし
て、おれはどうしたいのだろうか。堂々巡りの思考とは、もう一人の自分と格闘
しているようなものだった。
 芝山は本を閉じてぼんやりと空(くう)を見つめた。       (つづく)

   

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