rensai画像 (36)

 麻美は困惑したような表情で芝山を見てから小さくうなずいた。彼女を引き止
めた芝山自身にも戸惑いが生じ、胸がざわっと音を立てた。
「時間を気にしないでゆっくり話せるね」
 二人は同時に腰をおろして向き合った。麻美はリラックスして見えたので、芝
山も少しほっとした。
「ところで、ぼくたちは何の話をしていたのだろう」
「芝山さんの小説の話‥‥‥」
 麻美はいたずらっぽく笑ってグラスの液体を飲んだ。
「あ、そうか。二度読みしているところだったね。でも、ほかの作家のものは読
まないの?」
「芝山さんの文体に慣れてしまったせいか、ほかの小説はあまり読みたいと思い
ません。最近のベストセラーは興味ないし、特に読む必要性も感じないですから」
 それはうれしいことには違いなかったが、芝山は少し間を置いてからこう言っ
た。
「ということは、ぼくの小説は読む必要性があるから読んでいるの?」
 一瞬、麻美はきょとんとしておかしそうに笑った。
「わたしにとって芝山さんの小説は好きであることと、必要であることがイコー
ルなんです」
「そんなシンプルなことを言ってくれたのは、きみが初めてかもしれない。わか
りやすくていいな。うれしいよ」
 芝山は妙に感心しながら麻美を見た。まるで、この世にたった一人だけ存在す
る愛読者に敬意を払うような気持ちで。
「わたし、芝山さんの小説は、1月に本をいただいて読んだのが最初だから、そ
れまでどんなふうに評価されていたのかまったく知らないんですよね」
「突然、目の前に現れた読者だった」
「はい、新参者というか、遅れてきた愛読者です」
「あ、それいいね」
「わたしは何でも遅れているんですね。出産したのは早かったけれど」
 そう言って麻美は肩をすくめた。
「小説を読むどころじゃなかったよね」
「時間の余裕がなかったし、気持ちも世間のほうには向かなかったですね」
「そうだろうな」
「あ、話がずれてしまいました。ごめんなさい」
 軽く頭を下げる麻美に芝山は笑いかけた。
「ぼくの小説はいろんなところで批評されていたな。何人かの評論家たちは、書
き手のぼくよりも細かく登場人物の心理分析をしたり、テーマについて外国文学
の作家を引き合いにして詳しく語ってくれたりしたんで、つくづく感心してしま
ったよ。ありがたく受け取り、すぐに忘れるようになっていったかな」
「読者の反響はどうだったのですか?」
「愛読者カードや読者からの手紙にも目を通したけど、だいたい感動したという
ものが多かったかな。なかには、驚くほど長い評論を書いてきて、それをどこか
に載せてほしいという人もいたんだよね」
「最近の小説についてはどうですか? 読者の傾向は変わってきていますか?」
「どうなんだろう。あまり売れていないらしいから、反響があるんだか、ないん
だか、よくわからない」
 そう言って笑う芝山につられて麻美も笑った。
「わたし、芝山さんの小説の感想をもっと的確に表現できればいいのだけれど」
「何度か丁寧な感想をメールで送ってくれたじゃない。とてもうれしかったよ。
ぼくの小説について、好きであり、必要であると言ってくれた。それだけで十分
だ」
 麻美は恥ずかしそうに芝山をちらっと見てウィスキーを飲み干した。
 このように会話が進むにつれて、芝山の気持ちもほぐれていく。麻美の突然の
来訪もそして、彼女の背景にあるものもかすんでしまうほどだった。

「今、『チェンジ・オブ・ハート』を読んでいるんですけど、ニューヨークやボ
ストンの街の様子が目に浮かんでくるようで、行ってみたくなりました。芝山さ
んは実際に住んでいたことがあるんですよね。だから、生活の匂いが伝わってき
ます」
 芝山は広告代理店にいたころ、語学研修も兼ねて約2年間ニューヨークに住ん
でいたことがあった。しかし、帰国後はなかなか赴任先が決まらず、そのまま営
業マンを続け、気がついたら小説を書き始めていた。最初に書いた小説が文芸誌
の新人賞を受賞し、その1年後に退社したのである。
「今思えば、いい体験だった。あちこち遊びにも出かけたし、楽しくて興味深い
2年間だった。それがなければ、ぼくは小説を書いていなかったかもしれない」
「わたしはまだ海外に行ったことがないんです。これから先も行けそうにはない
ですけど」
「そんなことないさ。別に急いで行くことも、無理して行くこともないと思うよ。
駆け足で名所巡って食べて満足できるという観光旅行は、ガイドブックに載って
いる記事の確認旅行なんだよね」
「でも、初めて行く場合はそういうものでしょうね」
「まあ、そうかもしれないけれど」
「芝山さんはアメリカのほかにはどこの国に行きましたか? 特に印象に残って
いるところを教えてください」
 まるで新人インタビュアーのような聞き方である。芝山も真面目に答える。
「英仏独伊とアイルランド、オーストリア、オランダ、スペイン、インドネシア
かな。印象に残っているのは、フランスのブルターニュとイギリスのウェールズ、
ドイツはヴァイマルかな」
「わ、いろいろですね。お仕事で行ったのですか?」
「7割は仕事がらみかな。なぜか、フランスだけはプライベートで3回行ったの
かな」
「あ、パリは女の子と行ったでしょう?」
 麻美がからかうような調子で言う。
「いや、そんなことないけど‥‥‥。パリは別れたカミさんとは行ったことがあっ
た。なんていうのかな、情報の詰め込みすぎなんだよね。衣食住の情報だけでな
く、映画の舞台になった場所だとか、作家が集まっていたカフェだとか。早朝か
ら夜遅くまでいろいろ回るのがたいへんだった。それで、いちいちこだわりのシ
ーンを演出して記念撮影」
「わたしには未知の世界だから、面白そう」
 麻美が意外にも興味を示したので、芝山は美佐子とのパリ行きのエピソードを
かいつまんで聞かせた。
 美佐子が1週間しか休みがとれなかったこともあり、かなりの強行軍だった。
彼女はフランスが気に入っていて、芝山との旅行でもパリを選んだ。次から次へ
と新しい情報を仕入れていた美佐子は緻密な計画を立てた。そして、写真の背景
にも凝り、ポーズをきめて芝山が撮影した。
 例えば、夕暮れのセーヌ川をクルーズしたいと言っていた美佐子はバトー・ム
ッシュに乗り込むと、今回はさまざまな角度から写真を撮ってほしいとせがむの
で、芝山は風景を楽しむどころではなく、自慢のポーズをとって微笑む美佐子の
専属カメラマンになってシャッターを押し続けた。
 また、ピカソや芸術家たちが集まったモンパルナスのヴァヴァン交差点周辺に
ある4つのカフェをすべて回り切り、まるで映画のワンシーンのような図で撮影
した。このような場面でも美佐子の積極性はフルに発揮され、隣り合わせた客な
どにフランス語で話しかけて芝山とのツーショットも可能にしたのだ。
 美佐子の旅のアルバムは芝山とのパリ行きにかぎらず、どの土地でも風景だけ
を撮ったものはごくわずかで、そのほとんどが観光名所などの風景におさまる彼
女自身の写真だった。概ね、観光客のほとんどがそうしたものなのだろうが、特
に美佐子の場合は面白いほどこだわりが強く、結婚後に芝山はアルバムを見せら
れて驚いたものだった。

   麻美はニコニコしながら芝山の話を聞いていた。
「風景の中心に自分をおく写真よりも、わたしは自由気ままな一人旅をして写真
を撮ってみたいです。なんて、ちょっとカッコつけすぎかな」
「いや、麻美さんらしいと思う。旅行の写真といえば、高校1年のときにクラス
メートの女子に聞いた面白い話があるんだよ。その子の父親は刑事でね、とても
興味深い記念写真の話なんだ」
「どんな話かしら。聞いてみたいです」
 当時の芝山にとって刑事という職業はテレビドラマでしか知り得ないものだっ
たので、彼女の口から飛び出した「うちのお父さんは刑事」がリアルな響きとな
って、興味をひいた。
「うちのお父さんは刑事だからいつも忙しくて、家族で旅行したことって一度も
ないのよ。お父さんだけが犯人の足取りを追って、全国津々浦々、走り回ってい
るの。犯人追跡旅行ってわけ。それでね、犯人を捕まえたらそこの土地で記念撮
影するの。で、手錠かけた犯人といっしょの写真を相棒の刑事に撮らせるんだよ。
もちろん、手錠は見えないようにして撮ってあるけどね。無事に犯人を捕まえて
万歳っていう記念写真。で、お父さんは自慢げにわたしたちにその写真を見せる
んだ。これが阿蘇で、これは新潟の糸魚川の近くだな、お、北海道の苫小牧だ、
なんてね。ちょっと変な刑事かも。こっちはどこにも連れてってもらったことが
ないというのに、お父さんたら旅は道連れ世は情けって言うんだもん。変だよー、
笑っちゃうでしょ」
 彼女の話し方がとても面白く、芝山は腹を抱えて笑ったあと「そのアルバムを
見せてほしい」と頼むと、「そんなの無理に決まっているじゃない。犯人の顔が
映っているんだもん。持ち出し厳禁。だから、ここだけの話にしておいてね」と
彼女は口をとがらせた。
 卒業後の彼女がどうなったのか芝山は知らない。普通に結婚して家族旅行を楽
しんでいるような気がしたが、案外、父親と同じ刑事と結婚しているのかもしれ
ない。
「驚きました。犯人といっしょに写真におさまる刑事さん、考えてみたこともな
かったです。いろんな旅の記念写真があるんですね」
「彼女からお父さんの仕事の話をいろいろ聞いたけれど、どれも目からウロコで、
殺人事件の捜査も生々しく伝わってきたんだ。ユニークなお父さんというか、刑
事だったようだ」
 芝山は自分でも驚くほど饒舌になり、麻美も興味津々といった表情で話を聞い
ている。そのまま朝まで会話が続いていくようなテンポのいい時間が流れていっ
た。

「芝山さん、これから行ってみたいところありますか?」
 生真面目な顔で質問する麻美がかわいいと芝山は思った。
「東北地方かな」
「え、日本の東北地方ですか?」
「そう。最近、行ってみたいと思うようになったんだよね。特に岩手県はゆっく
り回ってみたい」
「なぜですか?」
「宮沢賢治かな」
「少し意外な感じがします」
「そうかな」
「芝山さんは都会的なイメージの人だから・・・」
 麻美が小さな声でつぶやくように言った。
「まるで幻想的なイメージはわいてこない?」
「いえ、そんなことないですけど・・・」
「ジョバンニが見た銀河鉄道の夢を追いかけてみたくなったのかな。それに、岩
手県は麻美さんの生まれたところでしょう」
「・・・・」
「確か、釜石だったよね」
「そうです」
「どんなところなのかな、と興味がわいたんだよ。きみは小学生のときに住んで
いたんだったよね」
「製鉄所の社宅があって、3年生まで住んでいました。いまは、ずいぶん変わっ
てしまったと思います」
「でも、きみがいたころの風景はたくさん残っていると思うよ。東京に移ってき
て、すぐになじめた?」
「いいえ。東京に転校することが決まったときは悲しかった。友だちと別れるの
がとてもつらくて。でも、姉は東京に行けるというので、とてもはしゃいでいま
した。そんな姉が不思議でたまらなかったです。東京に移ってもしばらくは落ち
込んでいました」
「友だちはできた?」
「なんていうのかな、友だちができても、また転校すると別れがつらいなと子供
心に思ったりしたので、ほどほどに友だちでいればいいのかなという感じで、あ
まり仲良くならないように努めていました。マイナス思考でしょう」
「そんなマイナス思考にも強い精神力が潜んでいるんだよ、きっと」
 芝山は小学生の麻美を想像してみるが、活発な女の子というイメージはまった
く浮かばなかった。クラスメートといっしょにいても言葉少なく、その目はいつ
も遠くを見つめている。寂しげな表情というのではなく、どこかぼんやりとした
表情。そんな女の子のイメージだった。

 会話が止まって沈黙の時間が静かに流れた。二つのグラスを鳴らす氷の音。と
きどき交差する視線。
 時を刻む気配も感じられないほど、夜は深く、どこまでも沈んでいく。沈黙の
行方が何を意味するものなのか、芝山は十分に心得ていた。そして、沈黙を破る
のに言葉を必要としなかった。
 芝山はゆっくりと麻美の横に座り、細い肩に腕を回して引き寄せた。麻美は何
の抵抗もなく、無言のまま芝山にもたれかかった。麻美のしなやかな感触を受け
ながら、芝山は指先を柔らかな髪にくぐらせ、そっと彼女の頬に唇をつけた。芝
山は胸の底から熱いものがこみ上げてくるのを感じ、柔らかな頬を両手ではさん
で唇を重ねた。
 夜と朝の境界線上で芝山と麻美は静かに抱き合った。夢と現実の狭間に心地よ
い場所を見つけて、二人はどこまでもさまよった。        (つづく)

     

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